ミケの足尾レポート・バックナンバー 10

2002/12/28
今年もレポートをお読みいただきありがとうございました。

「ミケの足尾銅山研究」は早くも3年目に入っておりますが、
研究とは名ばかりの趣味のようなものですので、気軽な気持ち
で読んでいただけたらと思います。これからも相変わらず
お付き合いいただけますように、よろしくお願い申し上げます。
来る年が皆様にとって、また私の愛する「足尾」にとって
良い年になりますように。



2002/12/12
最近の谷中湖

冬の谷中湖は訪れる人も減って静けさが広がっています。渡り鳥も多く白くひときわ優雅なのは白鳥です。2羽が連れ立って水面を飛んでいましたが、私はここでは初めて白鳥を見ました。野鳥は多いのになぜか白鳥が来たという話は聞きませんでした。が、今年から増えてくれるのではないかと期待しています。

谷中湖では水質浄化のためにいろいろな試みがされていますが、そのひとつとして人工の浮島をつくり、そこに植物を植えて水面に浮かべてあります。地元の小学生のグループなども参加しており今ではいくつもの島ができています。風で流されて移動しないように錘がつけられているのだとか。浮島は谷中湖の中でも釣りゾーンにあるのですが、植物の根に魚が産卵し増えるのを助けています。橋の上から四つ手網のようなものを長くロープで水面まで下ろしては魚を捕っている方がいました。バケツの中にはわかさぎのような魚が入っていましたが、聞くとわかさぎはいないそうで佃煮にして売っている「ゴロ」といわれるものだそうす。昨年かその前にはどうした訳か鮎がたくさん獲れた事がありました。板倉町の用水路などでも獲れて、にわか釣り人あちこちに見られました。水質がよくなれば魚や野鳥が増え、それがまた水質浄化に繋がるという事なのでしょうか。
昔、谷中村という村があって廃村の憂き目に遭ったという過去の歴史は明るい観光地としての谷中湖の景色からいえば、浮島の錘のような、見えないけれども大事な部分なのかもしれない、などと谷中湖の横断路を歩きながら考えました。



2002/12/03
旧谷中村延命院跡に鐘が戻る

以前にもレポートに書きましたが、元谷中村村長だった茂呂近助氏の子孫の皆様が近助の軌跡を訪ね、その記録を「谷中村村長 茂呂近助」という一冊の本にまとめて出版されたのが、昨年2001年の6月のことでした。末裔たちの足尾鉱毒事件という副題がついています。 
近助の住まいは谷中村下宮の堤外地にあった、とありますが、この本の
表紙のカバーには大きな茅葺屋根の家をバックにしたまだ若い時の近助夫婦の写真があり、冬だったのでしょう、厚い着物を着て明るい日差しの中に並んで立っています。

子孫の皆様(近助のひ孫にあたる)は「谷中村と茂呂近助を語る会」として、新事実の追求と、谷中村が廃村になった為に散逸してしまった村の遺物の調査などされているそうで、この夏には廃寺となった延命院の鐘を谷中村遺跡の寺院跡に戻し、据え付けてくださいました。鉱毒事務所が置かれていた雲龍寺の鐘によく似たもので、私も出かけた折にひとつ撞かせて(叩くという感じですが)頂きましたが、澄んだ音が意外な大きさでヨシ原の中に広がりました。最近は他にも原の中の住居があった場所に子孫の方が建てた記念碑などが増えました。
1906年の谷中村廃村からもうすぐ100年が経ちますが、歴史はまた新しく語り継がれていくのです。
写真はバックナンバー125.



2002/11/21
いわきと石炭

石炭産業の最盛期、本州最大の埋蔵量をもった常磐炭田には130余りの炭鉱があって、日本の近代産業を支え、特に戦後の経済復興には大きく貢献しました。この石炭は、今からおよそ3500万年前の古第三世紀漸新世に栄えた植物の化石です。阿武隈山地の東側にできた大きな入り江に多量の樹木が倒れこみ、流され、層状に埋められてできたものです。今でも地下には約11憶トンも眠っており、この莫大な石炭は21世紀に向かって新しい出番をひそかに待ち続けています。
             ーいわき石炭・化学館内の説明板よりー

日本に数多くあった炭坑も今は全て閉山となってしまいましたが、将来はまた利用される時がくるかもしれません。常磐炭坑の施設などは何も残っていないという話でしたが、よそのHPを拝見すると、放置されてはいるものの廃線跡や建造物など、かなりのものがあるようです。無断で申し訳ありませんが紹介させていただきます。私も再度訪れることがありましたら参考にさせて頂きたいと思っています。
http://homepage3.nifty.com/cava/tsudoi/td-johaisen.html




2002/11/07
常磐炭坑

足尾銅山は鉱山ですから炭坑とは少し違うかもしれませんがこの夏に今はいわき市になりましたが、常磐炭坑のあった跡を訪ねました。ホテルから乗ったタクシーの運転手さんも私と同年輩の方で炭坑の予備知識などお聞きしながら行ったわけです。鉱山は夏も冬も抗内の温度が一定で約17度か18度くらいで働きやすかったようですが、炭坑というのは石炭の特性なのか内部に掘り進むほど高温になり、50度にもなる場所もあって難儀をしたのだそうです。現在は坑口なども危険なので埋めてしまったりして当時の施設は何も残ってはいないとか。
「いわき石炭・化学館」という炭坑の資料館がありますので、そこを訪ねてみました。坑内に降りる(タテ抗)シュミレーションというのがあり、自分で下降ボタンを押すといかにも降りていくような気持ちになります。止まってエレベーターの反対側のドアから出るとそこが採炭現場になっておりました。
足尾銅山観光と同じように古代から現代へと、リアルな人形を配して説明テープもわかりやすく大変よくできていました。石炭産業華やかな大正年間はやはり足尾もそうですが、掘っても掘っても追いつかないよき時代だったようです。
鉱山も炭坑も使われている専門用語は同じで、働らいていた抗夫ももとはといえば掘る仕事ですから「友子制度」などもあったようです。館内から外に出ると炭坑特有のタテ抗のやぐらがあり、芝生の中に塵肺闘争の記念碑が赤く錆びて建っていました。ここは早い時期に珪肺が業務上疾病として認められたそうで、その間にも多くの患者が亡くなっていった、その人々の慰霊碑でもあるそうです。それはここでお会いした年配
の方が説明してくださいました。「最近足尾にも行ったばかりです。」と言われておりましたので、存じ上げないのですが専門に研究しておられる方だと思われます。年配の友人に、昔、北海道の砂川炭坑におられて若いときにしばらくのあいだ炭住(炭坑住宅)で暮らした経験のある方が、「私も行ってみたかった、場所は違っても懐かしいから。」と残念がっておられました。私も足尾以外の炭坑や鉱山はなかなか見に行く機会もないので貴重な経験だったと思います。
写真はバックナンバーNO123,NO124



2002/10/22
国有林の住所表示

前回の横根山地区は8林班と12林班とに分かれていた、という文章を読んだこと
があります。そして根利から足尾の銀山平に来る途中には「6林班峠」があります。
この林班というのは何だろうと思っていましたが、利根村の藤原に赴任している息子
が町の営林署の方のお話を聞く機会があり、この林班というのが広大な国有林につけ
られている住所だと判ったのだそうで、それを聞いた私もこの林班のナゾが一気に解
けたのです。林班はまた「6林班のア、イ、ウ」というように細分化され事故が起こ
ったときなどには「○林班のエで崖崩れ発生」というように使われるのだそうです。
銅山に貸し下げられた山林も国有林だったためにこの「林班」という表示が使われて
おり、そのまま住所になっていたのですね。
海には海図、宅地には住宅地図があるように山林にも専用の地図があったのです。