ミケの足尾レポート・バックナンバー 8
2002/08/28
根利山ー2  山中深く開かれた桃源郷

この根利山を岳人の企画で訪ねたのが、沢登りの第一人者・高桑信一氏です。
根利山に残る当時の道や神社、石垣、索道の遺跡などが、閉山以来無人となっ
た山中にひっそりと残っている様子が判るのは貴重なものです。そして、そ
れらの姿は正に自然に還ろうといているかのようで、ここに暮らした事のあ
る方達には懐かしい、感無量の思いではないでしょうか。
かってこの地で暮らした人々は今「根利山会」という会を作り、会合や墓参
などを通して故郷を偲んでいるそうです。根利山会の皆様がこれからも多く
の会合を持てますようにと願ってやみません。根利山よ永遠に・・・。

   根利林業所盆踊り歌

 山で自慢は学校二つ 冬は二ヶ所に夜学も出来る
 医局三つにお寺が一つ 宮は四社で倶楽部が二つ
 一致共同和気藹々と 芝居活動(映画)は春秋の慰安
 杣や炭焼き千余もあって お山繁盛とみな共稼ぎ


足尾では近隣の山の木を切り尽くしてしまったので、国有林を貸し下げてもらった
「根利」に供給源を求めたのです。切り出された木材は索道(鉄索)によって営林
署の事務所のある砥沢に集められ、そこから長い本線で六林班峠を越えて足尾の銀
山平の製材所へと送られました。伐木は専門の木樵(杣)によって行われ、搬出作
業は戸津川や木曽川あたりから木屋(とび職など)など、全国から腕に覚えのある
職人が集まって組を作って働いていました。明治45年頃、足尾鉱業所長を勤めた
近藤陸三郎が根利の山中で長い時をかけて育った立派なそれも選び抜かれた良材を
使って東京に私邸を建てたことがあったそうです。この話は高桑氏より以前、同じ
根利の集落を訪ねた岡田敏夫氏の著書「足尾山塊の山」のなかで、根利山会の世話
役の井波啓吾氏が語っておられますが、その私邸というのが目黒の雅叙園だという
事です。私は残念ながら雅叙園は見たことがありません。

この根利山も大半の用地の伐採を終えて、昭和14年8月16日、閉山となりまし
た。40年間、一時の繁栄をみた集落の跡は今再び深い森に還っています。




2002/08/28
根利山ー1

2002年の岳人2月号と5月号に「根利山」が載りました。現在はきちんとした
道もなく、昔ここに住んでおられた方達が時折訪れる時のために「皇海荘」という
山小屋を作ってあるのだそうです。
 
 道 その光芒 「足尾山塊、索道の径」
    光、いまだ失わずあり 山上に消えた幻の集落を繋ぐ径
             
                   文・写真  高桑信一

足尾銅山で使用する木材、薪炭の供給のために奥深い山中に開かれた集落。それを
人々は「根利山」と呼びました。現在の利根村の根利とは違い、まだずっと北へ、
山深く入った場所一帯です。根利の山の上に根利牧場がありますが、ここの管轄が
利根沼田営林署で、その案内板には「根利山」と書いてありますので今でもそのよ
うに呼んでいるのでしょう。牧場のあたりは最南端になるようです。「根利山」と
いう山があるわけではなくて、仕事をしていた一帯をこのように呼んでいたのです。
位置は、足尾の銀山平から庚申山、皇海山を越えた反対側になります。根利林業所
(正式名称は足尾鉱業所調度課根利出張所)は明治31年(1898)に開設され、
事務所のあった砥沢は国道120号の名所、吹割の滝のあるところから栗原川を遡
った源流近く皇海山の麓にありました。最盛期の大正時代には1500人もの人々
が働いていたそうで、そのため明治42年より砥沢と平滝には尋常小学校が設けら
れました。費用は全て銅山の負担であり、身分は群馬県利根郡東小学校分校として
教員の任命権、学校の運営などは全て群馬県の管轄下にあったという変わったもの
でした。両校とも大正8年の記録では教員4名、児童数はあわせて253名となっ
ています。



2002/08/22
なぜか歴史を振り返る夏

私が足尾銅山というそれまで全く関心もなかった場所に惹かれたのは、山と
か自然が身近にあり親しんで育ったのと、珍しいものにはすぐ興味を持つ性
格もありますが、私の行った先に足尾があった、というのが正確なところで
しょうか。人の多く住む場所では建造物などの古いものは次々に取り壊され
てなくなってしまいますが、山の中には今でも昔の街道や生活の跡など当時
のまま残っているものがあります。それも長い年月を経て自然の中に埋もれ、
興味をもって見ない限りは見えず、その目でその気になって見なければなに
も見出せない、今はその限界の時期にきているような気がします。当時、時
代の花形だったそれらのものは識者の目を通して語られ記録されて、再び人
々に感動を与えていますが、私もその恩恵にあづかっているひとりです。古
い時代を語ることのできる人も少なくなってしまいましたが、その憶いを受
け継いで若い方たちがまた次代に語り継いで残していってほしい、と、なぜ
か思う夏。

岳人8月号の高桑信一氏の「道ーその光芒7」は利根川源流を訪ねた『奥利
根湖岸道』です。高桑氏が足尾銅山の根利山の特集後に、次に書きたいと言
われていた「奥利根」は現在ではいくつかのダムが造られて観光客も容易に
訪れるところとなっていますが、古くは人跡未踏の地で猟師(マタギ)や鉱
山師(ヤマシ)、探検隊など限られた人々の世界だったのです。その地に入
り道を開いていったというそれは、足尾銅山の営林署があった根利山にも、
私の生まれた長野県の北アルプスの奥に開かれた黒部ダム、黒部湖の印象に
も似ています。黒部ダムができる前と、観光地化された後の黒部峡谷の変貌
ぶりとに驚き、呆然とした想いに重なります。
貯水が始まってダム湖の水位が上がり始め、「黒部峡谷 上(かみ)の廊下」
と称された懐かしい登山道が徐々に水没していく時はなんともいえぬ寂しいも
のでした。それと同じ現象が利根川源流の地にもあったことを思いながら読み
ました。 当時のことをご存知でない若い世代の方々にもその想いが通じるで
しょうか。

  写真はバックナンバー117をごらんください。



2002/08/17
足尾精錬所の周辺・本山

精錬所の表玄関に架かる直利橋から出川に沿って道が舟石へと登って
いきますが、この出川の谷間を本山といい、最初に銅の採掘が始まっ
た所です。古くは鷹之巣抗や本口抗(明治初期、木村長兵衛が活躍し
た頃とそれ以前)、また、狸堀りといわれる、人ひとりが入って掘り
進んだ小さな抗口が川沿いにあります。直利橋の山手に精錬所への引
込み線路がありますが、この線路の上を歩いてみましょう。間藤駅か
ら本山までの間は、大正3年に開通した銅山の貨物専用線ですが、閉
山の後使用されておりません。民営化されて「わたらせ渓谷鉄道」と
なった今は、間藤駅が旅客駅の終点です。
線路脇にある荒廃した無人の社宅は「婆火社宅」といわれる銅山の
職員住宅だったそうですが、線路脇の狭い場所で目の前が精錬所の
玄関です。職住接近といいますがあまり環境がよいともいえず、で
もここの子供たちは毎日、目の前を力強く往復する貨物車を見て逞
しく育ったのでしょう。線路を歩いて行くとすぐに短いトンネルに
入ります。出口の景色がまるで丸窓の絵のようです。
トンネル入り口に書かれた「列車確認」の文字や出たところにある
信号機など、昔の汽車の時代を知っている年配者には懐かしいもの
でしょう。その信号は列車の通行可を示す青信号のままになってい
て、当時のまま時が止まっているようです。

写真はバックナンバー098、099、100.101.をご覧下
さい。

写真集「足尾線の詩(うた)」斎藤利江  あかぎ出版



2002/08/14
神子内(みこうち)小学校

足尾町北部、日光に通じる国道122号沿いに神子内川が流れており、
家が道沿いに並んでいます。ここは日光への参道として9世紀半ばから
人が住み始めたという古いところです。銅山の時代は馬車鉄道や鉄索で
輸送力を増強し、宿屋や茶店も多く賑わったそうですが、足尾鉄道開通
後は寂れていきました。足尾と日光を結ぶ日足トンネルができたのは、
閉山後の昭和53年ですが、便利になった分、足尾町の経済効果は少な
いとも言われています。

神子内小学校は明治8年に足尾小学校の分校として始まったという
歴史ある小学校です。明治35年頃は神子内には馬車鉄道がひっき
りなしに通り大変活気を呈していました。この地はたびたび洪水に
みまわれ、校舎を移転した事もいくたびかありました。大正5年に
は生徒数も全校で60名ほどでしたがその後は生徒数も増えず、統
合の話も出る中で、昭和33年十二月に現在の場所に新校舎ができ
ました。学校というもの住民の心の拠り所でもありましたが、銅山
の閉山後は惜しまれつつ昭和59年3月に閉校式が行われ108年
の学校の歴史を閉じました。校舎はうしろにうっそうと木が茂った
山を負いいかにも「山の学校」という風情のまま、今も在ります。
最後の生徒たちが書き残したものでしょうか、窓から覗き込むと黒
板にはチョークの文字がそのままになっています。懐かしい景色で
す。
   
(写真はバックナンバー115、116をごらんください)

さてこの神子内川は鉱毒とは無関係の清流で、夏なお涼しい渓流釣りの
メッカです。時期には多勢の釣りマニアの車が道路にならんでいます。
その緑の美しい景色は足尾関係でリンクさせていただいております中の
『足尾物語』ー晴旅人尊塾氏ーに詳しいので併せてごらんください。



2002/08/14
足尾町上の平

間藤水力発電所跡の太い鉄管が残っている場所から上の平に上る石段が
あります。他の場所から車道もできていますが、本来はここから登った
ので私も当時のままに歩いて行く事にしました。(車道は狭く急です。
初めて登った時には、最初のカーブで上から降りてきた車があってびっ
くりしました)歩道の階段は舗装してあって広くゆったりしていてまる
で遊歩道のようです。でも一気に登ろうとすると大変で、当時の人達も
途中で一休み二休みして息を継ぎ、ついでに下に見える足尾北部地区の
景色を眺めたことでしょう。今は木が大きくなっていて、木の間越しの
風景ですがそれもいいものです。静かな道に鳥の声、虫の声、風の音、
一番奥には精錬所も、すぐ下には本山小学校も、白い河原の中を渡良瀬
川の流れているのも見えます。
車道ができてからは登る人も少ない事でしょう。

もともとは保安林地だった上の平は明治30年の鉱毒予防工事命令にあ
たって、古河の従業員だけでなく、足尾町民までが無料奉仕で協力して、
期限内に無事に工事を完成させました。この時ここに町民を招き園遊会
を開いて労苦をねぎらったことがありましたが、そのときに「上の平」
の名がつけられたそうです。その後、古河の宅地として造成され、職員
家族が居住していました。1957年(昭和32)から、町内の鉱山住
宅に住んでいた学校教員や警察官の住居をここに集約し、完了後の昭和
33年4月、足尾町に移管され現在に至っています。上の平に登る車道
ができたのが昭和37年、簡易水道の配水が始まったのは41年で、交
通の不便と水の不便も解消されました。上の平は開発が遅かった分、近
代化されており、町を一望できる特典もあります。下の道からは全く見
えず想像もできない不思議な場所でした。
  (写真はバックナンバー093、094をごらんください)



2002/08/14
関宿考ー2

千葉県立関宿城博物館の庭に「三県鶏鳴の地」という碑が建っていますが、ここ
は千葉県、茨城県、埼玉県の県境なのです。関宿城博物館は平成7年にできたば
かりですが、川に関する資料が充分に揃っており、4階の展望台から四方に広が
る川を見ていると、博物館で見てきたそのままの昔の景色が想像できるようです。
関宿河岸、境河岸と、帆を揚げて行き交う多くの船の様子、それは絵に描かれる
ほど風光明媚なところだったということです。古きよき時代、でしょうか。

   (写真はバックナンバー 091 092 をごらんください)



2002/08/14
関宿考ー1

関宿閘門は渡良瀬遊水地の下流20kmほどのところにあります。閘門というのは聞き慣れない呼び方ですが広辞苑によりますと「運河、用水路などにおいて水面を一定にするための水量調節用の堰、」でパナマ運河と同じ様式のものだそうです。五霞町側から行きましたので場所がわからず、土手下にいらしたおかあさんにお聞きしました。「中の島公園というのになっていますが、私ら小さい時から危険な所だから行ってはいけないといわれていて公園までもめったに行きません。」この辺は利根川と江戸川の合流地点で、渡良瀬遊水地と同じく広い河川敷には一面にヨシが茂っています。関宿の棒出しは、水害の元凶として田中正造が死ぬまで反対し続けたのですが、はたして20kmの上流まで逆流したのでしょうか。18間あった江戸川の流入口を8間にしたために洪水のたびに利根川が溢れて鉱毒水があこの一帯にも広がり、被害はかえって広範囲に広がったのは事実です。江戸時代から水害多発のため悩まされてきた土地で、それは公園内の説明版にも書いてあり、また1930年(昭和5)に工事が終了し、式典が挙行されたと巨大な碑に刻んでありました。公園内には棒出しに使われた角石も置いてありますが大きなものです。栃木県の岩船山で切り出され渡良瀬川、利根川と船で運ばれたものだとか、今は棒出しは全て取り払われて水門だけになっていますが、大量の角石は町の中で石段や道路、塀などに再利用され今も残っているそうです。ここは上流から水で運ばれる肥料が多いためでしょうかもみじやこぶし、楠、松など巨木が多く、とくに関東一といわれるこぶしの木は小山のように地面まで枝を伸ばし、春先の花の時期の見事さはなんともいえません。写真の映りも良く最高の被写体です。川の対岸に見える関宿城を花越しに見るのもいいものです。
  



2002/08/13
谷中村滅亡 その

谷中村から入植した人達以外に開拓民は「平民新聞」を出していた
社会主義者たちのつくった「平民農場」があり、真狩村には群馬団
体が栃木団体と同時期に移住し、ここには群馬県の鉱毒被害民永島
与八の妹の「たつ」もおりました。また、北海道の炭坑の労働組合
なども平民新聞を通じて谷中村の支援をしていた関係から、村民を
集団で移住させようと田中正造にも働きかけていたそうです。被害
地視察団の学生を案内した内村鑑三は札幌農学校出身、武者小路実
篤の「新しき村」の実践をした有島武郎の農場も真狩村の近くにあ
り、平民農場には、一時期野口雨情や石川啄木も働いていたという
ことですし、正造と共に運動していた、秘書役でもあった黒沢酉蔵
は1909年に札幌郡山鼻に入植し、後の雪印乳業のもとになった
農場を始めていました。酉蔵は北海道に渡ってからは谷中問題も含
めて、日本の農民を豊かにしようと、酪農経営に精魂を傾けていた
といいます。そして生涯正造を師と仰ぎ、忘れることはありません
でした。茂呂近助にもこれらの情報は入っていたのでしょうが、そ
れを十分生かしきる以前の経済的な問題などに手一杯だったのでは
ないかと思われます。
茂呂近助の住んでいた下宮地区には今は何も残っていません。
遊水地最南端第1排水門のあたりは越流提に阻まれてすぐ下には三
国橋が見え、古河ゴルフ場に接していますが、忘れられたようにひ
と気の無い場所で、狸が住んでいるような野性味溢れるところです。



2002/08/13
谷中村滅亡 その

移住した人達は、村の洪水が収まったら帰るつもりでいたようで、
茂呂近助も永住の意思はなかったようです。サロマで「茂呂牧場」
を成功させたのですが、その間にも何回か谷中村のようすを見るために帰郷しています。移住した2年後の1913年(大正2年6月)には、
田中正造と嶋田宗三を古河の自宅に招いており、サロマでの村民の現状を報告したのではと思いますが、この2ヵ月後、正造は亡くなっています。この頃は正造も自分の健康に自信が持てなくなったのか、関係者にそれとなくほのめかす手紙を送ったりしていました。

移住民を北海道の佐呂間まで送り届けた大貫権一郎という郡書記がおりましたが、佐呂間に行って見て、事前の説明とは余りにかけ離れた状態に驚き、帰った後も心を痛めつづけていたようで、職を辞した1929年(昭和4)には早速サロマを訪ねました。近助を始め栃木団体の人達の大歓迎を受けた権一郎ですが、その背景には「帰郷したい」という切実な思いがあったのです。その後代表28名から出された帰郷請願運動の「渡良瀬川遊水敷地御貸下願書」を栃木県知事に送り、権一郎は人々のために尽力する事となりました。
『渡良瀬川が改修された結果3000ヘクタールにも及ぶ天恵の耕地が出現したと聞き...治水に支障のない範囲で200ヘクタールを借りたい...』代理人として権一郎は、第一回1937年(昭和12)第2回1938年、と請願書を届けたのですが県は無視し、第3回1944年(昭和19)の嘆願書に対しては、『天恵の耕地の出現』を否定し、「遊水地内には耕作地は無い」と却下したのです。が、実際には東京向けの食料増産のため、遊水地の一部で元谷中村民による耕作が始まっていたのです。その後、入植60周年(1971年)に第4回目の請願が実ったのを権一郎は知らず、昭和28年に亡くなりました。

茂呂近助は1935年(昭和10年){もっと前ともいわれる} 大正昭和初期の冷害凶作の為に農場を閉じて古河の実家に帰り、85歳で亡くなりました。帰ってからも毎年二回の佐呂間栃木神社の例祭には氏子として訪れていたということです。