ミケの足尾レポート・バックナンバー 7

#0066 谷中村滅亡その後―V
ミケ  [2001年08月26日 22時34分]  [URL]  [MAIL]
1904年(明治37)、栃木県議会で谷中村買収案通過、1906年
には谷中村は藤岡町に併合され、これで行政上「谷中村」は消滅してし
まいました。当時約450戸の村民は移住を強いられ、近隣に、あるい
は県の斡旋で開拓民として遠く北海道へと、生活の場を変えたのです。
北海道サロマベツ原野に入った茂呂近助の家族を含む第一次入植者66
戸のうちの20戸は1年目にして去るほどの厳しい状態で、それまでの
温暖で肥沃な土地での農業とは勝手が違い、酷寒の地での暮らしは苦労
の連続だったのです。北海道の各地には国内各地から開拓民として入植
した人達が多かったのですが、サロマは特に条件の悪い土地だったよう
で、何とか生活の基盤を築いた家族もある一方で、開拓を断念して他地
区に移る者、夜逃げする者など、定住者は少なかったのです。
土地を売った補償金を持ってきた家族はまだいい方で、開拓の募集に応
じて来た人達にとっては余裕もなく日雇いに出て働くなど生活は困窮し
ていました。鉱毒に追われて来た人達と、稼いで帰りたい、一儲けして
やろうと考えて来た人達と、理由はなんであれ、誰も皆望郷の念やみが
たく、栃木県出身者は開拓地に「栃木」と名付けて故郷を偲びつつ、地
域がまとまって助け合って暮らしていました。
谷中村から他地区に移住した家族の安否を気遣って訪ね回っていたとい
う田中正造も、サロマまでは行けず、1913年(大正2)、病を得て
死去。翌、1914年には第一次世界大戦が始まり、ますます銅の需要
が伸びて足尾では産銅量が最高となり、銅山は隆盛を極める事となりま
した。

#0065 谷中村滅亡その後ーU
ミケ  [2001年08月20日 17時08分]  [URL]  [MAIL]
1977年(昭和52)草木ダムが完成したのですが、その前の
民家の買収には大変な苦労があったのだと聞いています。水没移
転戸数は222戸を数えたのですが住居だけでなく、田畑、山林、
墓地までも、生活してきた証が全て無くなるのです。先祖から住
んでいる土地でもあり、人々が離れがたいのは当然の事でしょう。

当時、谷中村が鉱毒のために廃村になった時の住民の無念の思い
はいかばかりだったことか察するに余りあります。
県からは移転先の斡旋もあり、時には正造も含めての話し合いが
持たれたのですが、残りたいという人々の意見を尊重し、その後
も闘いは続きました。早いうちに買収案に応ずれば補償額も高額
で、縁を頼って近隣に移転した家族も多かったのですが、年々鉱
毒の為に土地は荒れ、地価は下がり続け、従って補償額も下がる
という状態でした。10人が居れば10人の思惑があります。結
論は個人個人が出すものですが、茂呂近助の家族も思うところあ
って北海道佐呂間に行く事を決めたのではないでしょうか。
村長という立場に在った為なのかどうなのか、村民の生活に責任
を感じていて暮らしの立ちゆくまでを見届けたいという思いもど
こかであったのかもしれません。

#0064 谷中村滅亡その後―T
ミケ  [2001年08月13日 00時48分]  [URL]  [MAIL]
鉱毒問題は、正造の死去、残留民強制破壊、谷中村の遊水池化、住民
の他地区への移転、などにより終わったかのように思われがちですが
それは部外者の見方で、当事者にとってはここからが本当の紆余曲折
の始まりだったのです。

前回でも少しふれましたが、谷中村最後の村長となった茂呂近助氏か
ら数えて三代目になる子孫の有志の皆さんが、田中正造を中心として
ではなく、農民の側から見た鉱毒事件の検証を進められて、このほど
「末裔たちの足尾鉱毒事件」と副題をつけられた本を出版されました。
茂呂家は谷中村の名主の家柄で農業は小作人に任せていたため、近助
本人は農業の経験が全くなかったのです。谷中村の強制破壊の年(1
907年)に茨城県古河市に土地を購入して移転し、そこから59歳
の高齢で妻と養女の三人は家族の反対を押し切って北海道佐呂間への
開拓移民団に加わったのです。裕福な生活をしていた近助がなぜ、そ
れも遠い佐呂間への移民を決意したのでしょうか。当時の谷中村民の
移転先は古河市88戸、野木町66戸、藤岡町66戸、海老瀬25戸
など近隣が主でしたが、佐呂間へは谷中村など6村から66戸210
人がありました。当時政府は国策として開拓を奨励しており、谷中村
民に対しても「開拓者として生きる道」を熱心に薦めたのですが、こ
れに対して応えた人々もいたのです。村を離れることは、決して「裏
切り」とか「銅山側についた」とかいうものではなく、あくまで個人
の「選択」の結果だったのです。

 ※谷中村村長『茂呂近助』末裔たちの足尾鉱毒事件  随想舎
      

#0063 渡良瀬遊水池花火大会
ミケ  [2001年08月06日 20時05分]  [URL]  [MAIL]
今年の花火大会は8月4日、予定通り行われました。この日は
日本各地で花火大会があったようですが、隅田川花火大会ほど
に有名でなくても、この遊水池も年毎に人出が多くなっている
ようです。花火の打ち上げ場所は谷中湖のまん中にある、中の
島ですから周囲の堤防から中に入れば、遠い近いはありますが、
前に遮るものは何もなく充分によく見えます。私は去年と同じ
く東武日光線の板倉東洋大前駅から1qほど歩き、堤防を入っ
て谷田川にかかる思い出橋を渡り、谷中湖の波打ち際すれすれ
の場所までいきました。ここから右手に歩いて行くと下宮橋で
中の島に最も近いのでよりダイナミックに見えると思います。
左手はすぐに北エントランスで、旧谷中村合同慰霊碑のあると
ころです。駐車場も大きいのですが少し遠花火になります。旧
谷中村跡まではいると駐車場も広く花火も近く場所も良いので
すが、いざ帰る時に道が一本なので渋滞してしまい、堤防まで
出るのが大変ですので時間に余裕をもって行ったほうがよさそ
うです。あたりには屋台のお店がたくさん並び、家族連れやゆ
かた姿の若い娘さん達のグループなど、お祭りに興を添えてく
れます。毎年、古河市の花火大会も同日になっていますが、ナ
レーション付きのようで、元気な女性の声が風に乗って聞こえ
てきました。谷中湖の花火は近く、古河市のは少し遠く、おま
けに丸い月が花火の開く位置に上っています。賑やかな花火大
会です。

谷中村の下宮地区はほとんどが谷中湖の水の下になってしまっ
たのですが、この下宮には1900年(明治33)の川俣事件
の年に第6代谷中村村長に就任した(1月就任、川俣事件は2
月13日)茂呂近助という方がおられました。一世紀を過ぎた
今年六月に子孫の方々が研究をまとめられて本を出されました。
が、100年後ここで花火が打ち上げられるようになるなどと
は、当時からは想像もできないことでしょう。湖を渡って来る
涼しい風に波の音がヒタヒタと聞こえるほど静な夜でした。

#0061 野口春蔵の故郷、三杉川畔と越名河岸跡
ミケ  [2001年07月30日 20時26分]  [URL]  [MAIL]
三毳山から下に見える藤岡町から佐野古河線(県道9号)を佐野方面
に行くと、東北自動車道をくぐりますが、ここが高山町で、川俣事件の
リーダーとなって活躍した野口春蔵の故郷です。三杉川が渡良瀬川に合
流する場所で川の氾濫に依る鉱毒激甚地でした。今は干拓されて豊かな
農地に変わっています。
 ここにあった越名河岸は江戸時代から栄えた良港で桐生足利の織物や
葛生の石灰など産物を江戸に送り出す為、商人が活躍しておりました。
利根川と江戸川は運河で結ばれて隅田川から領国蛎殻町の終点まで、川
蒸気といわれた通運丸が運行しており、隅田川畔にはそれぞれ大商人の
倉庫が建ち並び、上陸する事なく荷の上げ下ろしをしていたそうです。
 田中正造は直訴の前年にこの通運丸を貸切って農民と共に東京に行っ
た事があったとか。今は三杉川も渡良瀬川も水量が減ってしまい、当時
の面影は何も残っておりませんが、この近くに野口春蔵の碑があります
ので訪ねてみましょう。「野口春蔵翁七十三歳之寿碑」
そこからまた近くの高山町公民館に寄ってみます。長福寺と隣接してい
ますが、門前の赤いよだれかけを掛けられた古いお地蔵様はいかにも、
当時を語りそうです。この公民館では今も田中正造翁報恩和讃が続けら
れているようですが、私はまだ聞いた事はありません。この和讃の歌は
岩崎佐十の作といわれています。
 昔の河岸の名残を辿ると、笹良橋から越名河岸跡へ、そして佐野への
道を走っていると歩道橋に「馬門」(まかど)の文字が見えました。越
名河岸に隣接していた馬門河岸がこのあたりにあったのかと思うと妙に
懐かしいような嬉しいような気持ちです。当時盛んだった船運による内
陸交通の話は情緒深く、興味が尽きません。
   
 山本鉱太郎著「川蒸気船通運丸物語」  崙書房
  ー明治、大正を生き抜いた利根の快速船ー

#0059 暑中お見舞い申し上げます
ミケ  [2001年07月23日 00時00分]  [URL]  [MAIL]
皆様 いかがお過ごしでしょうか。いつも「足尾レポート」を
読んでいただきましてありがとうございます。
今年は梅雨が明けてもまだ蒸し暑く厳しい毎日が続いております。
体調に気をつけられて元気で夏を乗り切ってください。

8月4日の土曜日は例年どおり、渡良瀬遊水池の花火大会が
予定されています。去年は花火が終わると同時に雷雨に襲われ、
楽しくも印象深いひとときでしたが、サテ今年はどうなりますか。
遊水池の土手の上からでしたらどこでも花火は見えますが、
あなたがお気に入りの場所はどのあたりでしょうか?
谷中湖からの涼しい風に吹かれながら、少しだけでも
かっての谷中村の事、足尾の事など考えてみるのもいいかも
しれません。涼しいどころではなくて寒い位のこともあります
から上に羽織るものと、雷雨に備えて大きい丈夫な傘をお忘
れなく。ではまた、次回から本来のレポートに戻ります。

#0058 渡良瀬遊水池の風景
ミケ  [2001年07月16日 00時47分]  [URL]  [MAIL]
渡良瀬遊水池に、北口から入りヨシ原の中をまっすぐにのびた道路を
行くと、右に「谷中村遺跡」に入るゲートがありますが、入らずに
なおも進むと水路を渡り、土手に当たります。それを左に登ると、
「新赤麻橋」です。後ろに第一調整池が広がり、谷中湖も見える
小高い場所で、この橋を渡ると第二調整池が野木町、古河市まで続い
ています。トップページの写真はこの橋の上から上流を見たものです
が、渡良瀬川は本来は海老瀬の方を流れていたのですから、この風景
も新しいものです。車も通れる立派な橋が架かっていますが、道は
橋を渡った所で行き止まり。古河市まで行けない事はないのですが、
歩くのならまだしも、車で抜けるのは悪路ですから細心の注意が必要
です。当時、渡良瀬川を赤麻沼に入れる工事をして流路を変えたので
すから昔の風景はたぶん何も残ってはいないと思います。
さて、橋の上に戻りますが、赤麻沼があり、そして三毳山が映ってい
たのかもしれません。そして空の彼方は足尾です。60q〜70q
ほど上流になります。
以前、この橋の上から若い方が長い釣り糸を垂らしていたところ、
1bほどもある白っぽい魚がかかりました。たぶんおもしろ半分に
やっていたのでしょう。仲間の方が川岸に降りてたも網で掬おうと
したのですが足場も悪くついに逃げられてしまいました。魚が逃げる
時、キラッと身を光らせて尾を一閃、あっという間でした。
それにしても川が大きいと魚も大きくなるものだと驚きました。かっ
ての赤麻の漁師も大きい魚と格闘していたのでしょうか。原の中の
用水では今も舟から投網を打つなど漁師の姿がみられます。

#0057 田中霊祠
ミケ  [2001年07月08日 23時34分]  [URL]  [MAIL]
藤岡大橋の側に、遊水池を見守るかのように建つ田中正造の銅像
を右手に、渡良瀬川左岸の道を川上に向かって行くと、右手に
「田中霊祠」があります。ここは正造の分骨を祠った神社で、後
の1936年(昭和11)1月20日に無くなったカツ夫人の分
霊も合祀されています。
正造が最後まで大反対をした渡良瀬川を赤麻沼に流入させるため
の新渡良瀬川を作る工事をした、その土を持ってきて捨てた場所
がここで、谷中村に最後まで残留して抵抗を続けていた家族の内
の6戸が1917年(大正6)にそれまで嶋田熊吉邸の石祠に在
った分骨と共にここに移転しました。移転当時は鉱毒の為に、草
も生えない状態だったそうですが、今は大木が涼しい木陰を作る
までになり、その中に神社が鎮まっています。神社前の嶋田邸か
らその向こうに広がる水田を見ると、この神社のある所が、水塚
のように、小高くなっていて、やはりここが土砂捨て場だった事
を思わせます。
毎年4月4日には、正造の徳を慕う例祭があります。

#0056 谷中村残留民と田中正造
ミケ  [2001年07月02日 20時50分]  [URL]  [MAIL]
1904年(明治37)7月29日、正造は谷中村住民となって
村復活の為に闘いはじめました。64歳の時です。明治39年か
らは要注意人物ということで三人の巡査を監視につけられ、行動
は逐一報告されて、これが日夜煩わしくもあり、また反面、政敵
や鉱毒問題の反対者などからは身の安全を守られるという状態で
した。

谷中村の残留民が強制破壊に遭ったのが明治40年の6月29日
から7月5日の7日間でしたから、ちょうど今の時期です。この
間も正造の行動は尾行巡査の記録に依って詳細が判るそうで、正
造にはいつも秘書ともいえる島田宗三をはじめ、運動に対する協
力者などが同行していましたからかなり賑やかな状態ではなかっ
たかと思います。尾行巡査は正造が演説をしようとする先に回っ
て阻止しようと図ったりするので辟易していたところ、明治44
年、3月23日、東京麹町内幸町の中島祐八氏宅に止宿中、「今
朝尾行巡査中止の申出あり、七ヶ年の尾行を中止せり、旅行若し
くは飲食にまで危険を感じたり、依ってまた前のウルさきもの、
却って恋しくはなりぬる」ー正造の日記よりー
ということで「これからは自分の身は自分で守らなければならな
い」状態になりました。

16戸の残留民の家族はこの後10年にわたる仮小屋での闘いを
続けたのですが、他の土地へ移住した人達の中にも生活に困窮し
たために密かに帰ってきて住んでいた復帰民が、多い時には25
戸を数えたということです。

#0055 谷中村滅亡
ミケ  [2001年06月24日 02時09分]  [URL]  [MAIL]
越名沼跡から左方に目を転じると藤岡町で、向こうに渡良瀬遊水池が
広がっています。当時はここにも大きい沼、赤麻沼があり、淡水魚の
宝庫でした。渡良瀬川が大間々から関東平野に出て利根川と合流する
までの間が、鉱毒被害が広がった土地で、それが三毳山の頂上からは
一望できるのです。ほとんど、土地に高低差が無く、大間々、桐生、
足利の山間と、栃木平野から来る何本もの河川が合流する場所で、特
に渡良瀬川と利根川の合流地点に在った谷中村は周囲を水に囲まれて
おり、堤防を築いて暮らしていた村でした。水の恩恵で栄えていた村
が水(鉱毒水)の為に滅ぼされてしまったのです。 

1905年(明治38)頃から谷中村民は土地買収案を承諾して離村
し始めます。いくら正造が村の復活を力説してもすでに長い闘いの為
に疲れ果てた人々を思いとどまらせる事は出来ませんでした。残留民
の強制破壊(1907年〈明治40年〉6月29日から7月5日にか
けて谷中村残留民の家屋16戸が県の強制破壊に遭いました)の前に
すでに多くの同志や協力者を失って正造は孤立していました。人々に
とっても鉱毒との闘いに踏ん切りをつけて再出発にかけようという、
特に若い年代にはその考えが強かったのではないでしょうか。
当時、「社会主義伝道」の旅の途中で谷中村に立ち寄り、正造と逢い
案内を受けた荒畑寒村(19歳)が、谷中村の記録を書いてくれるよ
うにと正造から依頼されて書いたという「谷中村滅亡史」は完全に被
害民の側に立って政府を批判したもので、偏ってはいますが、当時の
様子がよくわかる一篇です。

そんな暗い過去の歴史も忘れさせるのどかな三毳山からの風景です。

        参考:荒畑寒村著 「谷中村滅亡史」 岩波文庫

#0054 栃木県岩舟町みかも山頂上からの風景
ミケ  [2001年06月17日 17時40分]  [URL]  [MAIL]
東北自動車道の佐野藤岡I.Cに隣接して「みかも山」があります。近
年公園として整備され年間を通して花の名所になりました。春のかた
くり、桜、6月のあじさいなど。頂上まで続くコナラの樹林帯の中を
ハイキングもよし、専用バス(フラワートレイン、一日500円)に
乗るもよし、です。万葉の東歌にも『下野の みかもの山の…』と、
うたわれた歴史あるところです。頂上まで行って見ましょう。展望台
からは航空写真のような風景が広がって目を楽しませてくれます。
北西側には遠く日光連山が望まれ、その下には、田中正造が生まれ育
った故郷、政治運動の拠点とした佐野市が広がり、左手には国道50
号を越えて館林市、近く手前は藤岡町、そして、渡良瀬遊水池の広い
ヨシ原の中に谷中湖が光って見えます。 この見える風景の中で正造
は鉱毒問題の為に言葉通りの東奔西走をしていたのが、いまからちょ
うど100年前なのです。
山裾を東北道が走っていますが、その道路と佐野市街の間の広い農地
に注目してください。今は麦の取り入れが終わり、代わって水を張っ
た水田には稲の苗が植えられて一面の鏡のように空を映しています。
この広い農地は昔の越名沼の跡なのです。水運が盛んで越名河岸は江
戸時代から佐野と江戸をつなぐ良港として栄えていたのですが、支流
の三杉川は洪水のたびに渡良瀬川の逆流に遭い、水を溢れさせて鉱毒
被害激甚地になってしまったのです。
今、みかも山頂上から其の地を見ると、第二次大戦後に干拓されたと
いう田圃が広がり、越名沼も越名河岸も鉱毒事件も、過去の記録に残
るのみとなり、ただ田圃が少し沼を連想させてくれる美しい風景があ
るだけなのです。

#0053 足尾町から横根山へと続く、若葉の道
ミケ  [2001年06月11日 12時17分]  [URL]  [MAIL]
足尾レポート、今週はお休みです。
実家の弟が筍(破竹)が豊作だと言うので、それでは!と、早速
たけのこをもらいに行きました。足尾レポートをお休みさせて頂
だきます。今は観光シーズンではないので道路も空いていて快適
に走れます。かんじんの北アルプスが雲に隠れて見えないのは残
念ですが、山菜のお好きな方には絶好の時季ではないでしょうか。
山小屋もそろそろ開き始めているようですから、静かな山をお望
みの向きには好機ですが、まだ高い山は冬ですので充分注意され
て事故に遭われませんようにお気をつけて自然を満喫してくださ
い。雲間から時折り覗く残雪の山は絵のような美しさです。
今回のトップページは筍かそれとも安曇野の風景か、とも考えた
のですが、やはりタイトル通り足尾にしようと思います。
写真は足尾町から、122号を右折して横根山に行く途中、琴乃
家さんから少し登ったあたりです。粕尾峠に至る車道は木々に覆
われて、春先の青葉は秋の紅葉にもひけを取りません。気持ちの
よい道です。

#0052 佐野市春日岡山惣宗寺と田中正造
ミケ  [2001年06月03日 18時06分]  [URL]  [MAIL]
通称、佐野厄除け大師といわれて人気の春日岡山惣宗寺は、
田中正造が政治の道を志して行動を起こした基地とも言え
る所です。本堂に向かって左手に大きな自然石を使った、
『嗚呼慈侠田中翁之墓』と刻まれた墓があります。墓を一
周してみますと隣りには養女となった原田武子(タケ)の
墓、そして、正造の支持者、津久井彦七の墓もあります。
こんなに巨きい墓も関心が無い限りは注目される事もなく、
境内の風景として静座している田中正造翁、とも感じまし
た。墓の前に説明文がありますので読んでみましょう。

田中正造翁の墓
田中正造翁(1841〜1913)は佐野市小中町に生ま
れ、この惣宗寺を本拠地として政治の道に進み、栃木県会
議員を経て帝国議会代議士となり憲政史上に不朽の名を留
め、全生涯を正義の旗手として人権の尊重と自然保護の為
に捧げました。翁の没後、当寺院で本葬が執行され、遺骨
はゆかりの地五カ所(注.現在は寿徳寺を加えて六ヶ所)
に分骨埋葬されました。…略

まだ鉱毒問題が表面化していなかった明治10年〜12年
から正造は寺に部屋を借りてに三年ほど住み、ここを拠点
として演説会などを開き、地域の人々を啓蒙していったの
です。それは「地域の振興は人々の教育による…」という
正造の持論でもありました。

また、墓の前には盛岡中学三年の時、正造の直訴に感激し
てカンパ活動をしたという石川啄木の歌碑があります。
 夕川に葦は枯れたり血に惑う民の叫びのなど悲しきや=@

#0051 田中正造、結婚の理想像を語る
ミケ  [2001年05月27日 00時17分]  [URL]  [MAIL]
小泉内閣発足まもなくの大英断、「ライ予防法」に関しての首相の
発言『控訴断念』の一言は関係者一同に歓喜をもって迎えられまし
た。すぐに状況が変わるわけではないにしても、原告の方の「正に
長いトンネルを抜けた思い…。」と言われたその一語に尽きるでし
ょう。

以前、田中正造がカツとの結婚に反対された件を書きましたが、こ
れには訳がありました。それが他ならぬハンセン病に関係している
のです。二人が結婚したのはまだ江戸時代の元治元年(1864)
のこと。それは明治維新を二年後に控えた幕末の激動期で、もちろ
ん、ライ病は特別視されており、政策も何も無い、そんな時代の
ことでした。遠戚先で葬儀がありました。その死人がライ患者であ
った事もあり誰もが忌み嫌って近寄らなかったのに憤慨した正造(
憤慨して、とは正造の言い分)が葬儀に出かけたうえ、近親者かの
如くに世話をしたというので悪評判がたち、カツの実家大沢家の反
対にあった、というわけです。
―それで、背負い駕籠に入れて連れて来てしまったのだと―
その後、大正2年に正造と死別するまで50年の長い間にも共に過
ごしたのは3年程だったと言われているのですが、東奔西走の毎日
だった正造が思い描いていた結婚の理想像とは―

―婦人の徳は恰も衣類の裏らの如し。男子は衣類の表てなり。女徳
の裏強けれバ、たとい表て切れ破れても裏ニて保もてり。裏らハ表
てより大ならず。只表とともに終身を全ふするのみなり。偶表破るゝ
も裏丈夫なれ。うらの丈夫ハ女徳の常ニかくれて見えざるも非常の
場合に顕れて男夫の危ふきをも救うなり。
 大正元年10月5日付け原田タケ宛書簡より―

結婚を衣類の表裏に例えるとは正造もなかなかのものでタケに結婚
に対する心得を説きながらも反面、妻カツさんへの感謝も忘れない
という感じがします。正造は女性を衣類の裏、と卑下しているので
はなく表と変わらぬ価値を見いだしており鉱毒問題の中でも女性の
力を高く評価しているのもうなずけます。結婚当初は新しい衣類も
年月と共に破れすり切れ、または単衣となる事もあり、といろいろ
な夫婦像が考えられてなかなか笑いを禁じ得ない所もあります。

注>原田タケは原田家に嫁いだ、正造の妹リンの長女.タケで明治
8年に正造の養女になりました。尚、明治10年にはカツの実家の
姉、タケの次男文造を養子としました。この手紙をタケに送った翌
年に正造は亡くなっています。

#0050 正造の分骨地、足利市野田町寿徳寺
ミケ  [2001年05月19日 23時56分]  [URL]  [MAIL]
渡良瀬川左岸の千勢子碑のある岩崎家から少し下流の右岸に
寿徳寺があります。ここは平成元年(1989)に初めて分
骨地である事実が世に出ました。分骨地は5カ所と信じられ
てきただけに、驚いた訳ですが、それまでも別に放置されて
いたのではなく、毎年9月4日の正造の命日には手厚い供養
がされてきました。その当時、分骨申請が少し遅れた為もあ
ったのでしょうか。「分骨」に至ったのは関係者一同の熟議
の結果であって、やむを得ないという感じもしますが、難問
だった事だろうと推察されます。正式に分骨を許可された5
カ所(佐野市小中霊場、佐野市惣宗寺、館林雲竜寺、藤岡市
田中霊祠、北川辺田中霊場)は、10月10日に手続きを済
ませ、10月12日の佐野の惣宗寺での本葬に臨みました。
正造が9月4日に庭田家で亡くなった後すでに雲竜寺に於い
て9月6日に密葬が済んでいましたし、同夜、正造は荼毘に
賦されておりましたので、本葬までの40日弱の間にもそれ
ぞれ各方面の人々の意見をまとめるのに苦慮した事でしょう。
が、ともかくも本葬後の分骨式(執行人は正造の甥の原田定
助、介添人は原田政七)の前に話し合ってあったのだと思わ
れます。多勢の監視のなかでどうやって取り分けたのでしょ
う。原田政七はその後「七カ所に分けた」と言っていたそう
ですが、他にももう一カ所あるという事でしょうか。
さて、正造は密かに寿徳寺開山の墓に(トップページの写真
正面の三基ある墓のまん中の小さい墓)合葬されました。

寿徳寺の開山は北条時宗に招かれて1272年に日本に来た
西澗子曇(「かん」は門がまえの中が日でなく月)という中
国の宋代の高僧で鎌倉の円覚寺、建長寺の管長を務めた後に
寿徳寺を興しました。その墓に正造の分骨が大正2年(19
13)に納められたのです。この秘密の行動をしたのが室田
忠七という被害地久野村(今の野田町)のリーダーで、後に
は村会議員、郡会議員を歴任しました。正造の意志を継いだ
ひとりといえるかもしれません。

寿徳寺の裏はすぐに渡良瀬川の土手でそのあいだは竹林です。
当時も護岸のために川岸にはどこでも竹を植えてあったとい
うことですから、その名残か、などと思って見ました。
それにしても開山の墓のささやかにつつましく、正造の意志
に通じるところがあるような。徳の高い方に守られている気
持ちでおだやかに心安らぐ思いがします。

#0049 古河掛水倶楽部
ミケ  [2001年05月12日 11時17分]  [URL]  [MAIL]
前回に続いて足尾の掛水倶楽部です。季節が佳いのと一般公開
された内部の雰囲気の良さに立ち去りがたい思いです…。

掛水倶楽部は明治32年(1899)に建てられたのですが、
その後も増築、改築がされて現在も利用されています。この
明治32年といえば渡良瀬川下流では鉱毒闘争も最高潮の時
でした。1897年には政府が銅山に対して鉱毒防止命令を
下し、この短期間の期限付き工事を銅山の従業員のみならず
町民まで一丸となって成し遂げ、操業停止を免れたのでした。
銅山なくしては、町民も暮らしては行けません。この一大工
事を終えたあとに掛水倶楽部の建設が始まったのですから、
銅山側も町民もどんなに安堵したことか、そしてどんなに晴
れやかな思いだった事か想像できます。
一方、鉱毒被害民の代表も何回か鉱毒の元凶である足尾の様
子を調査に通っておりますが、自分達の疲弊した状態に比べ
て、あまりにもかけ離れた銅山の隆盛ぶりをどんな思いで見
た事か。そして、明治33年(1900)には被害民の第4
回大押し出し(川俣事件)、34年12月には衆議院議員を
辞職した田中正造の直訴、と続きます。
今年から数えて丁度100年前の事でした。

#0048 足尾祭り2001年春
ミケ  [2001年05月06日 14時43分]  [URL]  [MAIL]
GWなので足尾に行ってみました。3日からは足尾祭り、そしてあの
古河足尾銅山の迎賓館「掛水倶楽部」が一般公開されています。今ま
では見学にも連絡が必要で遠慮していたのですが、これからは土曜日、
日曜日、祝日はいつでも見学ができる事になりました。さて中は初め
て見せて頂いたのですが、和室、洋室の広い部屋、洋寝室、食堂、ビ
リヤード室と、とても素晴らしく、離れた建物になっている、日本で
最初だという私設電話棟の中の電話交換機は一昔前を思い出しました。
庭も公開されていてこの建物の周りを見て歩きましたがバーベキュー
の建物も造ってあり、防空壕まであります。この防空壕は天井が低い
ので、娘がゴツンと頭をぶつけてしまいました。ご用心ください。い
つもは正面からしか見られなかったのですが、今を盛りと庭に咲いて
いるつつじや石楠花に彩られて吃驚するほど美しく思わず見とれてし
まうほど、渡良瀬の春満喫です。  掛水倶楽部を見せて頂いている
間にお祭りの山車が向こうに行ってしまいましたので、追いかけて松
原の商工会まで歩きました。賑やかなお囃子に合わせておかめやひょ
っとこのお面をつけた子供達がきれいな衣装で山車の上で踊っている
その身振り手振りのかわいいこと。山車の周りの大人達もお祭りを大
切にしているのがよくわかります。この若葉の美しい季節に毎年開催
されてきたお祭りは、その昔銅山華やかなりし頃はもっともっと盛大
に行われ足尾に暮らした人達にとってその思い出は深く脳裏にやきつ
いて離れない、と本で読んだ事がありますが、またこれからも人々の
思い出になるお祭りになって欲しいと思いました。

#0047 潮田千勢子と鉱毒地救済運動
ミケ  [2001年04月30日 11時44分]  [URL]  [MAIL]
足尾鉱毒事件に関しては、押し出しに参加した被害地の女性達や、
事件後に投獄された人達の援助など、女性の力を忘れる事はでき
ません。鉱毒の被害を広く人々に伝えたのは当時のマスコミの力
が大きかったのですが、ここでも毎日新聞の記者の松本英子が、
「鉱毒地の惨状」をルポして掲載しました。この連載は1901
年(明治34)から4ヶ月間、59回にわたって続きましたが、
松本英子自らが被害地に取材に通ったのです。明治34年の12
月10日は田中正造が明治天皇に直訴した日ですが、彼女らが正
造の案内で被害地の視察をしたのは11月16日のことでルポは
11月22日に始まっています。それは世間の注目を集めました。
この34年春に日本キリスト教婦人矯風会(この前に帝国婦人協
会という女性の自立と生活改善をめざす団体があり、会長は下田
歌子、松本英子は監事だった)の講演に招かれた田中正造の、被
害地救済を訴える姿に心を動かされ協力することのなったのです。
松本英子はこの時、会の副会長だった潮田千勢子の秘書となりま
した。そして、この会の下部組織として有志でつくった「鉱毒被
害民救済婦人会(会長、潮田千勢子)」は積極的に活動を展開し
一般人からの寄付、救援物資などを集め、講演会や被害地の慰問
被害激甚地の子供達を預かっての一時養育、また、医師や看護婦
を送るなど、日夜働き続けて、1903年(明治36)58歳で
胃ガンの為亡くなりました。正造は葬儀に泣きながら弔辞を捧げ
たそうです。
   わが友の 死は死にあらで その神の
    生きてそのままありと思へば     正造

この時代に団結してボランティア活動をした人々が多数いたこと
に驚くばかりです。
足利市内から渡良瀬川が館林方面へと向かう途中に川崎橋があり
ます。このあたりは護岸工事もずいぶんと堅固で一面コンクリー
トで覆われていて、川が気の毒な感じがしますが、この橋の近く
に岩崎家があります。当時の当主、岩崎佐十は上流地区被害民の
リーダーであり、正造の臨終の時は軍医の経験から看護主任とし
て正造の最後を看とりました。庭の形良い植木の中に潮田千勢子
の碑はありました。彼女の死後、正造の呼びかけに依って渡良瀬
川のほとりに建てられたのですが河川改修の為岩崎家に引き取ら
れたという事です。女性の碑らしく人が正座した程の高さです。
今のご主人は「あまり見学に見える方はいないので久しぶりです。
以前、バスで来られた団体があって吃驚しましたが…。」とおっ
しゃっておりました。その前に岩崎家が判らず尋ねた私に近くの
たばこやさんのおばあちゃんは「潮田千勢子さん、知ってますよ
看護婦さん、ですよね。」そして慰問に来てくれるご婦人方の事
を「東京のおくさま」と呼んでいたのだとか、少し昔話をして下
さいました。

#0046 強制的に分断された木村浅七邸
ミケ  [2001年04月21日 17時39分]  [URL]  [MAIL]
寄り道で渡良瀬川をそれてしまったのでまた少し戻りましょう。
桐生から足利市へと入ります。足利は「太平記」で知られた、
歴史豊かな街で、ここもまた織物業盛んな所でした。助戸(足
利駅から東へ15分ほど)の木村浅七邸を訪ねてみましょう。
江戸時代から続く織物工場の主、木村浅七(3代目は長く足利
市長を務めた)は、輸出織物の生産で隆盛を極め、また、田中
正造の政治運動に対しても良き協力者の一人でした。足利市の
支援団体鉱毒救済会(明治32年結成)の委員にも木村浅七の
名が見えます。
この通りの両側は全て浅七の工場のあった所で当時は敷地内に
羽二重工場が何棟も建ち並び、100人前後の使用人が生活し
ていたという、足利東部きっての豪商でした。
(同地に足利織物記念館があります)
さて、このまっすぐに伸びた通りですが、当時土木県令と言わ
れた三島通庸の暴政の証拠であり、また、三島と正造との闘い
の跡、ともいえるでしょうか。新道の測量線が故意に正造の支
援者である浅七の工場を分断する地点に当てられたのです。浅
七が賄賂を断わると強制的に建物を破壊して道を通してしまい
ました。土木工事に力を入れていた三島に対して、これに批判
的だった正造は三島ににくまれ、また正造も三島の暴政を排す
べく闘っていたのです。この、分断された道が今もそのまま残
り、長く続くレンガ塀とともに当時の出来事を想像させてくれ
る静かな一角……。

#0045 多々良沼周辺
ミケ  [2001年04月14日 15時34分]  [URL]  [MAIL]
多々良沼周辺は公園として整備され、広がる沼を見ながらの
水辺の散歩など人気があり、藤が咲く5月の連休中の人出は
大変なものです。沼の中央に弁天様が祀られていますが、こ
こは1333年〜1590年(天正18年)迄、250年程
の間、城が築かれていました。廃城となってしまいましたが、
江戸時代には「鶉古城」と呼ばれ、また良い砂鉄がとれたの
で鍛冶師が集まりました。そこから「多々良」の名がついた
といわれています。鍛冶師達は砂鉄を求めて移動したものら
しく今はその地名が残るだけです。そして、大谷休泊の植林
から始まった大谷原の松林が横に連なって大変長閑な眺めで
す。「下休泊堀」はこの多々良沼が水源となっています。
前回、115万本の植林という言葉が出てきましたが、10
年間植え続けた、とは言っても少々おおげさかと思います。
また別の案内板には115本と書かれていますが、現存する
松林はその一部だという事ですので、実際は「大変たくさん
の松苗を植えた…」というのが妥当で、115万本というの
は白髪三千丈と同じ誇大表現なのではないでしょうか。

ここから近く東武伊勢崎線の多々良駅のすぐ南に、田中正造
と共に鉱毒と闘った亀井朋次の碑があります。人家の中にあ
って少し解りにくいので駅で尋ねてみてください。多々良村
の豪農に生まれた亀井は川俣事件でも先頭に立って被害民の
リーダーとして活躍しました。この時他の多数のリーダーと
共に逮捕投獄されましたが、二審では無罪となり、その後は
弓道に励み、教士・範士として師範学校(今の筑波大学)を
はじめ各校で指導し活躍しました。正造と共に鉱毒問題に奔
走していたのは21歳の頃の事です。大正11年に46歳で
亡くなり、大正14年に彼を慕う門下生らに依って顕彰の碑
が建てられました。碑文は夏目漱石の門下生の鈴木三重吉が
書いています。かなり大きな碑に「碑の生先井亀」と右から
左へ横書きされている(文面は縦書き)のが当時らしくて珍
しく思います。


#0044 大谷休泊の偉業
ミケ  [2001年04月08日 11時48分]  [URL]  [MAIL]
大谷休泊は大永元年(1521)生まれと伝えられ、多野郡平井
(現藤岡市)城主上杉憲正の家臣であったが、館林城主長尾顕長
の招きに応じて領内の成島に住み、灌漑、植林等の開発事業にあ
たったといわれる。その事業は渡良瀬川及び多々良沼より用水堀
を堀り、邑楽、館林の1000fほどの水田を灌漑し、約63f
の新田を開く一方、広漠たる館野ヶ原(たてのがはら)に金山よ
り115万本の松苗を移植したと伝えられ、現在でも用水堀は、
上休泊堀、下休泊堀と呼ばれ、また、植林地は大谷原として松沼
町周辺にその面影をとどめている…
         館林のつつじヶ岡公園に建つ碑の案内板より 
邑楽郡では小学校4年生頃に社会で「群馬のくらし」という副読
本がありこの大谷休泊を、郷土の偉人として勉強します。もう少
し熱心な先生は渡良瀬川から取水された休泊堀に続いて、足尾鉱
毒事件から、田中正造まで説明してくれますが、これで興味を持
ち渡良瀬遊水池まで訪ねる生徒もいるようです。特に太田市の毛
里田地区では過去に足尾の堆積場の決壊で被害に遭っているだけ
に興味をもって勉強するようです。

江戸時代の封建社会においては、農業が生産基盤であった為開拓
は各藩にとっては重要な課題だったのです。やはり、荒れ野に水
を灌漑し沃野に変えた岡登景能公と休泊は開拓人だったのですね。

この休泊堀は当然利根川に流れ込むと思っていたのですがそうで
はなく農地をまわりまわって、さらにもっと下流の館林市大島地
区にある邑楽頭首工からの取水堀とも連絡されており、各地にあ
るため池に水を貯めています。渇水期の対策でしょうか。

休泊(1521〜1578)の墓は多々良沼のすぐ南、館林市北
成島町にあります。ここからは彼の植林した(火山灰の台地の為
植えても植えても枯れるので、根気強く植え続けて、115万本
も植えたといわれています)大谷原の松林が一望できます。冬に
なると沼に飛来する白鳥を眺め、また、保護されて大きく育って
いる自分の松林を眺め、沃野の中、彼は満足しているのではない
でしょうか。この松林は自然を残したままに整備され「彫刻の小
径」と名付けられて人々に愛されています。