ミケの足尾レポート・バックナンバー 6

#0042 桐生市を流れる渡良瀬川
ミケ  [2001年03月31日 17時46分]  [URL]  [MAIL]
桐生市の観光パンフレットに「歴史、文化と自然が彩る
織都1200年のロマン」とうたわれている桐生市。
明治時代から銅と並んで輸出品目のトップにあった生糸
の産地として栄えました。群馬県は長野県と共に養蚕が
盛んで、また織物の産地でもあったので、「上毛かるた」
〜群馬県の風物が詠み込まれており、今も小、中学生の
大会が開かれている〜 には関係ある札が何枚かありま
す。 繭と生糸は日本一
   県都前橋生糸(いと)の市(まち)
   日本で最初の富岡製糸
   銘仙織り出す伊勢崎市
ここ桐生は「桐生は日本の機(はた)どころ」と詠まれ
ています。

渡良瀬川は市街地の南寄りを広い河川敷をつくり、ゆっ
たりと流れています。今は観光用にしか見られなくなっ
た友禅流しですが、当時は水もきれいで日常的に見られ
た事でしょう。鉱毒が問題になってからは織物関係者に
とっては死活問題となり、下流の農民と同じに、生活の
悩みを抱える事になったのです。

桐生の山々の水を集めて出てきた桐生川が渡良瀬川に合
流するところは、太田市、足利市、桐生市の三市の境界
に近く、松原橋のすぐ上流には「太田頭首工」(桐生市
広沢町5丁目)があってここで取水された水は太田、邑
楽地区の農業用水となっています。休泊堀、と呼ばれて
います。やはり岡登用水と同じく大谷休泊という人物が
この農業用水路を開拓したのですが、これは次回に訪ね
てみましょう。

#0041 渡良瀬川の水の行方
ミケ  [2001年03月24日 14時59分]  [URL]  [MAIL]
高津戸峡から初めて関東平野に出た渡良瀬川は、古くは
赤城山に近い方を流れており、洪水のたびに流路を変え
ながら上流からの土砂が堆積し、広大な大間々扇状地を
作り上げました。川は、年が経つと天井川となり自然に
低い方、流れやすい方へと移ります。自由に蛇行して、
人々もまた危険な場所を避けて住居を構え、自然と共存
してきたのでしょう。笠懸町の「岩宿遺跡」はこの地に
旧石器時代の生活文化があった事を教えてくれました。
国道122号からすぐですから是非立ち寄って見て下さ
い。特に相沢忠洋氏が石器を発見した地層をそのまま目
にする事ができる「岩宿ドーム」は係りの方がいつでも
説明のビデオを上映して下さいます。火山灰の厚く積も
った赤土の関東ローム層の断面が圧巻です。

また、大間々の深沢と桐原、藪塚本町の大原本町には、
あかがね街道の宿が置かれていた為、周辺には今でも当
時の面影がしのばれる史跡が多く残っています。少し道
を外れますが、高津戸峡から近い「小平の里」で一日遊
び、映画「眠る男」に出てきた野口水車で挽いた粉で打
ったうどんやそばを味わってみてください。特にうどん
の味は格別です。

岡登用水の恵みを受けた農地が広がる藪塚本町の大原に
は、代官岡登景能公の恩に報いる為、宝暦2年(175
2)、岡登神社を建立し保存会によって守られてきまし
た。広い清潔な境内には、1687年に亡くなって30
0余年を過ぎた今もかわらず、景能公の徳を慕う人々の
気持ちが込められているようです。

#0040 岡登用水
ミケ  [2001年03月18日 22時06分]  [URL]  [MAIL]

高津戸峡の絶景を楽しみながら、少し寄り道をしてみましょう。

…当時笠懸野は原野で水利が悪く耕作皆無の状態で荒れ果てた
土地であった。景能公はこの土地に水を灌漑するために渡良瀬
川より水を引き、寛文12年(1672)、10年以上の年月
を費やして岡登用水堀を完成させた…
   「岡登景能(おかのぼりかげよし)公墓所の説明文より」

埼玉県児玉郡出身の岡登次郎兵衛景能は代官として忠実に勤め、
ここ笠懸の地に24qの用水堀を完成させたのですが、心無き
人々の悪口、同僚官吏による嫉妬、また下流住民の苦言等によ
り、使用5年ほどで廃渠となってしまったうえ、幕府の命によ
って切腹を申しつけられ、自害して50余年の不運の生涯を閉
じました。のち、その大事業が認められ、安政2年(1855)
古水路の再興をし、明治6年、完全に開通して今に至っていま
す。
昔の取水口は高津戸橋の下方にあったという事ですが今は、は
ね滝橋畔に大間々頭首工があり、また、同地内の神明宮の境内
には彼の偉業を讃えて、第67代内閣総理大臣福田赳夫の書に
なる「岡登用水堀再興の碑」が建てられ、この立派な開拓人を
讃えております。
景能公の墓は岩宿遺跡近く、国道50号線に添った国瑞寺の墓
地にあります。また、高津戸峡の取水口から4q下の国道12
2号近く笠懸町竹沢にはこの用水を各町村に分けるための「三
俣分水」があり大変興味深いものです。

#0039 訂正
ミケ  [2001年03月12日 00時45分]  [URL]  [MAIL]
#0037のレポートの足尾ダムは「草木ダム」の間違いです。
うっかりしていて申し訳ありませんでした。

#0038 高津戸峡のはね滝橋付近の渡良瀬川
ミケ  [2001年03月12日 00時38分]  [URL]  [MAIL]
  
「渡良瀬川は、栃木県足尾町の山中から発し、赤城山麓を通
り中流部に移ろうとする頸部にあたるところが高津戸峡であ
る。高津戸橋の上流は峡流となっていて両岸の断崖絶壁に、
春はつつじや藤の花が、秋には紅葉が付近の奇岩に映え、流
水は岩を噛みしぶきを散らし、あるいは淵となる。訪れる人
々は東毛(注・群馬県東部地区)の赤壁とか、耶馬渓とか称
するほどで四季の景観はまことに見事なものである…」
     (大間々町観光課の案内説明版「高津戸峡」より)

わたらせ渓谷鉄道の大間々駅から、歩いて10分ほどの上流
に、この高津戸峡の中の絶景で知られたはね滝(はねは正し
くは魚へんに発と書きます)があります。このはね滝の上に
架かるのがはね滝橋という歩行者専用の吊り橋で、橋上から
渡良瀬川をおそるおそる覗くと一瞬、平衡感覚を失うほどの
高さと水の美しさ、景色の良いことに驚きます。
はね滝というのは、激流となって水が飛び散るさまが魚の撥
ねるのに似ているのでつけられた名前だとか。
ここから左岸を下の高津戸橋まで500bほど、遊歩道が作
られており、途中には珍しいポットホール(甌穴)もあり、
名前をつけられた奇岩もいくつかあってベンチも用意されて
います。気持ちの良い木の下の散歩を楽しみましょう。
この高津戸峡も水質検査のポイントのひとつになっています。
 

#0037 足尾ダム
ミケ  [2001年03月04日 01時16分]  [URL]  [MAIL]
オットセイ岩からまた下流へと行きましょう。
すぐにトンネルに入りますが、ここが栃木と群馬の県境で、
国道は足尾トンネルに、わたらせ渓谷鉄道は長い草木トン
ネルに入ります。(草木トンネルはダム湖と同じ長さのた
め、湖は全然見る事ができません)この場所はかっては交
通の難所で、左岸に小名峠、右岸に大名峠があり大難所の
ため大難峠とも言われました。馬一頭が12貫(45s)
の銅の荷を二個積んでようやく通れる程だったといいます
から、トンネルで知らないうちに通り抜けてしまう今では
想像もできません。

草木ダムは1977年(昭和52)に完成しました。東村
の222戸が湖底に沈んだそうです。またこのダムは上流
の足尾から流出する鉱毒を沈殿させる目的もあり、水質検
査のポイントのひとつになっています。足尾の最上流の三
川合流ダム(足尾ダム)と同じく土砂の堆積が多くダムの
寿命が短いのでは、と心配されているようです。少し緑が
かった美しい水の色も硫酸銅の色なのでしょうか。

草木湖畔にはここ東村出身の(星野)富弘美術館がありま
すので、是非寄って感動のひとときを過ごして下さい。
富弘さんの描かれた一枚一枚の花の絵に添えられた言葉は
彼の魂とも思えるほど、心に深く残って生涯忘れる事はな
いでしょう。

#0036 渡良瀬川の水質監視ポイントのオットセイ岩
ミケ  [2001年02月25日 14時27分]  [URL]  [MAIL]
足尾から渡良瀬川を下流へと行ってみましょう。

今は国道122号ですぐに通り抜けて群馬県に入ってしまいますが、
ここにはかってあかがね街道が利根川の河岸を目指して通っていま
した。渡良瀬川は122号から見ると左手を、ある地点では一本と
なり、またある地点では広い河原を作って流れています。右手から
餅ヶ瀬川が合流する近く、トンネルに入る手前の右岸に、オットセ
イにそっくりな巨石があり、ここが渡良瀬川の水質調査に指定され
ているポイントのひとつです。国道右手に地元の特産物などを売っ
ている小さな売店があり、いわな、やまめ、ます、の塩焼きとか、
時期には、きのこあります、とか書いてあり、ついそちらに気を取
られて見落としやすいので要注意。河原に降りる階段も造ってあり
ます。大きなオットセイが首をもたげて川の方に注目しており、い
かにも水質の見張り番といった風情です。

この場所のすぐ上には源五郎沢堆積場がありますが、ここは195
8年(昭和33)5月に決壊して、下流の群馬県太田市毛里田地区
の農地に大被害を与えました。東毛、三市三郡(桐生市、太田市、
館林市、新田郡、山田郡、邑楽郡)で結成された鉱毒根絶同盟会が
、県、中央官庁、古河鉱業本社、足尾の山、に向け「昭和の大押し
出し」をかけて抗議した事がありました。(足尾レポートのバック
ナンバー参照)足尾町内には今も堆積場が多くあり、水質の監視は
これからも継続されていく事でしょうがオットセイ岩から下には銅
山の堆積場は無いようです。

#0035 足尾町渡良瀬の銅山鉱業所
ミケ  [2001年02月20日 07時00分]  [URL]  [MAIL]
掛水の職員住宅(役宅)の並ぶ、今はテニスコートになっている場所に
鉱業所(足尾銅山事務所)がありました。明治41年(1908)頃、
足尾暴動後に建てられ、掛水倶楽部に隣接しております。二階建ての洋
風建築で赤煉瓦造りだったといいますから、倶楽部の屋根の水色と調和
して美しかった事でしょう。思うからに壮観な、文化の香り高いこの一
角は、足尾の山の中に東京と変わらない景観を作りだし、足尾に住む人
々の誇りでもあったのではないでしょうか。これも大正10年(192
1)3月、会社の都合で売却されてしまいました。
足尾の当時の写真の中に多勢の人々で賑わった掛水倶楽部での大園遊会
のものがありますが、これは売却後の大正14年(1925)の事です。
今はテニスコートの倶楽部寄りに倉庫が一棟残るだけですが、赤煉瓦造
りの立派なもので充分に当時の面影を残しています。 その鉱業所の売
却先は、渡良瀬川を下った足利市で、庁舎として利用されましたが、昭
和40年後半、銅山の閉山と同時期に老朽化のため取り壊されてしまい
ました。足利にお住まいになっている方が「昔の庁舎はまだよく覚えて
います。」と懐かしそうに話してくれた事がありました。
掛水倶楽部の側を流れている渡良瀬川を橋の上から見ていると、水の色
が倶楽部の屋根の色と同じで美しく、当時「花の渡良瀬、青葉の小滝…」
とうたわれ、桜の名所だったというこの渡良瀬の春の景色を、夢のよう
に想い描いてしまうのです。

#0034 知人から頂いた火鉢
ミケ  [2001年02月11日 09時49分]  [URL]  [MAIL]
今回は足尾のレポートから少し外れるかも知れませんが、私の
自慢の火鉢をどうしても見て頂きたくてご紹介します。

この火鉢は友人に「火鉢、火鉢。」と言っていたのが効を奏し
て、知人が譲って下さいました。この地方の旧家で、昔、多勢
の寄り合いの時などお座敷のあちこちに置いたものだそうです。
いくつかあったそうですが、もう使われないのでほとんど捨て
てしまったそうで、それも使い古されてフチが壊れており外側
の塗りもすっかりあせていました。そこで、フチの修理をし、
きれいに拭いてニスを塗ってみたところ、写真のように生まれ
変わり、ホレボレと見とれるような美しいものになりました。
材質は檜か栗の木のようです。足尾銅山に関係づけるとしたら、
なかに銅が貼ってある事です。栃木県はお隣であり、また、古
いものですから、おそらく足尾から出た銅が使われていると私
は確信して愛用しております。
2000年問題では電気が止まるのでは、と心配して火鉢がた
くさん売れた、という話ですが、MY火鉢のように素晴らしい
火鉢はまたと無い、ととても満足している私です。

豆炭を使っています。が、まるで重厚な家具のようです。おも
ちもするめも焼いています。使わない季節は蓋をして花でも飾
りましょうか。

#0033 掛水の役員社宅
ミケ  [2001年02月04日 16時11分]  [URL]  [MAIL]
わたらせ渓谷鉄道の足尾駅に降りて、そこから掛水倶楽部(足尾銅山
の迎賓館)まで歩いてみましょう。ここは周囲の山と渡良瀬川の渓谷
が美しく、役員の社宅を建てるのには適した場所と思われます。それ
ぞれ一戸建ての立派なもので、代々の鉱業所長も家族と共にここに住
み、激務にあたると同時に安らぎの場所となっていたのでしょう。
道の右側には板塀に囲まれた建物が何軒か並び、おえらいさんが住ん
でいたらしい風情です。また、駅に近いほうのものは内外も荒れたま
まで、当時の足尾暴動で打ち壊しに遭ったのかと考えてしまう状態で
すが、中はトップページの写真のとおり、広いいくつかの部屋に、床
の間つき、廻り廊下も広く、天井も高く、これが新しかったら、さぞ、
快適な住み心地ではないかと思われます。
その一軒の外の棚をふと見ると、ガリ版(謄写版)のセットが置き残
されていました。ガリ版印刷は昭和もつい最近まで健在だったのです
が、印刷技術が進み、今は見かけられなくなってしまいました。筆耕
といわれて、鉄筆で細かいマス目の用紙にガリガリと文字を書いた(
原紙を切った)懐かしい時代がありました。印刷インクで手を汚しな
がら一枚ずつローラーで刷り上げたものです。どこにでも、実に味わ
い深い文字を書く名人がおりました。雄筆(右筆、祐筆)と言いまし
ょう。このガリ版を使って、足尾の社内報や、または、組合運動の
ビラなどが出されたのでしょうか…。

#0032 足尾精錬所
ミケ  [2001年01月29日 00時48分]  [URL]  [MAIL]
現在の足尾精錬所の建物は昭和48年2月28日、銅山が
閉山となって以来、荒れたままになっています。その姿は
むしろ銅山華やかなりし当時よりも、見る人にある種の感
動を与えるようで、私ばかりでなくここを訪れる多くの人
々は渡良瀬川の対岸に立ってドキドキするようなその風景
に威圧され、本を読んで得た知識と重ね合わせて、暫くの
間、当時の賑わいを想像してみるのです。
荒れた地をならし、破れた建物を修復し、昔の写真で覚え
ている限りを当てはめて、そしてそこに多勢の働く人達を
配してみると、昔の賑わいの中に立っているかのような、
遠い時間が今、ここにある…。
一時代を築いてつとめを終えたかのように閉じられた鉱山
炭鉱はほとんどが足尾銅山と同時期ですが、今週の読売新
聞日曜版の「ろまん紀行」は、長崎県の軍艦島(端島炭鉱)
で、足尾銅山にあまりにも良く似た現状に驚いたのでした。

#0031 北夜半沢への石段と抗夫浴場跡
ミケ  [2001年01月21日 00時22分]  [URL]  [MAIL]
小滝の里から小滝抗への途中、道の右手に楕円形の浴槽跡が
あります。その日の仕事を終えて、坑内での汚れを落として
から、それぞれの住居に帰った抗夫たち。入浴後は汚れた坑
内(しき)着を抱えて裸のままだったそうです。現在、周辺
は木々に覆われてしまい、想像するだけですが、小滝抗を中
心に備前楯山側へ、また庚申川対岸(右岸)の南夜半沢へ、
道の向かいの広い石段を北夜半沢へと、それぞれの住居へ、
何段もの石段を登って帰ったのです。それら住居は山沿いの
傾斜地を削って階段状に造成された所に建てられていました。
狭い一軒に7.8人の家族でそれは大変な賑やかさだったそ
うです。この浴場の道の反対側は北夜半沢への登り口の広い
石段で「小滝人には思い出多き石段であり、また終戦後中国
人捕虜達が、帰国に当たり、記念写真を写した石段でもある」
(太田貞祐氏著、足尾銅山小滝の里より)のです。石段の上
を水が流れ落ち、その上へと続く階段状の道も、危険な状態
だった最近ですが、年末に通った時は補修工事をしておりま
した。ここも当時のままの状態では残せない…。住む人が去
ってから50年にもならないのに、長い時の経過を感じます。

#0030 宇津野火薬庫
ミケ  [2001年01月13日 20時39分]  [URL]  [MAIL]
国道122号を小滝へと左折する入り口は最近道路の
改修がされて、「庚申山」の碑も道路右に移されまし
た。道は左に庚申川、右は山で、500メートルほど
上ると山側に長く2.3Mの石垣が続いていますが、
ここは小滝抗から出たカラミや廃石の堆積場跡で、明
治30年頃に渡良瀬川下流域の鉱毒被害が甚大となり、
そのため関係者からの非難に堪えかねた明治政府のと
った苦肉の策(鉱毒防止命令)として築かれたもので
す。この堆積場の北の山中に火薬庫があり、宇津野火
薬庫と呼ばれています。案内板から入り口の柵を抜け
て坂道を登って進むと、いちばん手前に管理棟、横に
並んで四棟の火薬庫があるのです。が、外観は普通の
山と変わりません。この山を4箇所、8Mほどに掘り
下げ周りを石垣で固めて、その中に火薬庫が一棟ずつ
建てられているのです。どれかが何かの事故で爆発し
ても他に被害が及ばないよう配慮されています。入り
口はそれぞれ石造りのトンネルでこれが11Mと長く、
外からの入り口と火薬庫側の門扉はいずれも分厚いセ
メントで、トンネル内に深く積もった落ち葉はいつの
ものか、少々不気味な雰囲気です。
(ダイナマイトは慶応3年、1867年に発明されて
明治15年、1882年に別子銅山が日本で最初に使
用し、翌年には足尾でも使われるようになりました。)
火薬庫はそれぞれが石造りや煉瓦造りの、屋根は重厚
な瓦葺きで大きさは10M×5Mもあり、これが外から
は全く見えないのですからまるで山中に隠された要塞
のような感じがします。またこの火薬庫の丘は桜や山
藤の咲く時季は美しく火薬庫が出来た明治42年頃か
ら桜が植えられていたそうです。ここは小滝閉抗の昭
和29年以後は使用されなくなり現在に至っています。

#0029 お知らせ
ミケ  [2001年01月13日 20時37分]  [URL]  [MAIL]
前回No.53までの足尾レポートは、すべて
バックナンバーに移動させましたので、そちら
からご覧下さい。
<バックナンバーURL>
http://www1.ocn.ne.jp/~mike5625/ashiophoto.htm