ミケの足尾レポート・バックナンバー 5

#0028 宇津野火薬庫
ミケ  [2001年01月13日 18時02分]  [URL]  [MAIL]
国道122号を小滝へと左折する入り口は最近道路の
改修がされて、「庚申山」の碑も道路右に移されまし
た。道は左に庚申川、右は山で、500メートルほど
上ると山側に長く2.3Mの石垣が続いていますが、
ここは小滝抗から出たカラミや廃石の堆積場跡で、明
治30年頃に渡良瀬川下流域の鉱毒被害が甚大となり、
そのため関係者からの非難に堪えかねた明治政府のと
った苦肉の策(鉱毒防止命令)として築かれたもので
す。この堆積場の北の山中に火薬庫があり、宇津野火
薬庫と呼ばれています。案内板から入り口の柵を抜け
て坂道を登って進むと、いちばん手前に管理棟、横に
並んで四棟の火薬庫があるのです。が、外観は普通の
山と変わりません。この山を4箇所、8Mほどに掘り
下げ周りを石垣で固めて、その中に火薬庫が一棟ずつ
建てられているのです。どれかが何かの事故で爆発し
ても他に被害が及ばないよう配慮されています。入り
口はそれぞれ石造りのトンネルでこれが11Mと長く、
外からの入り口と火薬庫側の門扉はいずれも分厚いセ
メントで、トンネル内に深く積もった落ち葉はいつの
ものか、少々不気味な雰囲気です。
(ダイナマイトは慶応3年、1867年に発明されて
明治15年、1882年に別子銅山が日本で最初に使
用し、翌年には足尾でも使われるようになりました。)
火薬庫はそれぞれが石造りや煉瓦造りの、屋根は重厚
な瓦葺きで大きさは10M×5Mもあり、これが外から
は全く見えないのですからまるで山中に隠された要塞
のような感じがします。またこの火薬庫の丘は桜や山
藤の咲く時季は美しく火薬庫が出来た明治42年頃か
ら桜が植えられていたそうです。ここは小滝閉抗の昭
和29年以後は使用されなくなり現在に至っています。

#0027 小滝の住居跡
ミケ  [2001年01月06日 18時10分]  [URL]  [MAIL]
21世紀、あけましておめでとうございます。今年も
ミケの足尾銅山研究&足尾レポートをよろしくお願い
します。
足尾の中でも小滝は自然が損なわれずに残っています。
季節ごとに装いを変える風景は私たち人類の疲れた心
を慰めてくれる名医のようで、いつまでも残しておい
てほしいものですね。

#0026 銀山平の山桜
ミケ  [2000年12月31日 00時59分]  [URL]  [MAIL]
20世紀も終わり、21世紀を迎えようとしております。
足尾町に暮らした事のある方々に依る「足尾の百年」
という本が出ておりますが、昔から現在迄を辿って読
むと全く知らない足尾が、まるで以前に住んだ事のあ
る所のように身近に思われて来るのがとても不思議で
す。21世紀、足尾はどのように変わっていくのでし
ょうか。忘れられそうな人々の記憶を少しでも「記録
」として残せたらと思い、ささやかですが足尾レポ−
トを続けていきたいと思います。これからもどうぞよ
ろしくお願いします。

#0025 小滝路から本山へ舟石林道を辿る−U
ミケ  [2000年12月23日 16時36分]  [MAIL]
前回のレンガ造りの3口の竈は、小滝会館か、あるいは
並びにあった青葉寮(独身男子寮、20歳代の若者ばか
り100人も居た)のものでしょうか。青葉寮は戦前は
銅山の職員寮(合宿とよばれた)だったので、この竈も
長い間、炊事場の主として煮炊きに大活躍した事が想像
できます。
さて、銀山平を過ぎ、舟石林道を走って「舟石」という
集落跡を過ぎると、丁度備前楯山の裏(本山を表とすれ
ば)になりますが、対岸の沢沿いに、足尾銅山のごく初
期、明治10年以前に稼働していた「鷹の巣抗」の抗口
がいくつも見えます。説明文も建ててありますが、木の
葉が落ち尽くしている今だからこそ、その小さな抗口を
見る事が出来るのは貴重です。古河市兵衛は新潟の草倉
銅山から精鋭の抗夫と共に甥の木村長兵衛を呼びここか
ら足尾銅山発展の基を築きました。また、立松和平氏の
小説「恩寵の谷」にも取り上げられ、生野銀山からはる
ばる来山した若者3人が活躍する物語も全てこの鷹の巣
抗が出発点なのです。現在でも相当な山奥であるこの場
所で、狸堀りといわれる自分の体が入る程の大きさの穴
の中で危険と背中合わせで働いていた事でしょう。春は
この山の斜面にヤシオツツジがたくさん咲きます。人々
はきつい仕事の間にも眺め眺めしてその美しさに心を和
ませたのではないでしょうか。
周辺の山は今も緑のないままで、冬の風がきつく、3時
近くには奥山の方からぱらぱらと落ちてきた霙に追われ
て陽の陰りかけた道を帰ったのでした。

#0024 小滝路から本山へ、舟石林道を辿る−T
ミケ  [2000年12月17日 17時44分]  [URL]  [MAIL]
かっての企業城下町足尾も今2000年の年の暮、この
激動の100年を振り返りつつ、静かに新世紀を迎えよう
としております。
つい最近の事ですが、群馬県の、ある化学工場が足尾製錬
所の場所への移転を希望しており、それに対しての足尾町
の困惑の記事が、3回ほど、新聞の地方版に載った事があ
りました。どういう結果が出るにせよ、渡良瀬川の源流域
の事でもあり、細心の注意を払って、事を進めてほしいも
のです。
さて、R122号を小滝路の入口、巨きな「庚申山」の碑
から左折します。木の葉がすっかり落ちているので庚申川
の対岸の社宅や長屋の石垣もはっきり見えます。小滝の主
要施設のあった山側へと残った石段を登り、レンガの竈が
崩れたまま残されているのを見たり、また、その上へと続
く階段を上って、まだまだその上に石垣が続いているのを
見て、当時の人々のエネルギ−の大きさを感じます。銀山
平の中国人殉難烈士慰霊塔に対して、朝鮮の方々の、慰霊
塔を、ここ、小滝の里に建てる計画があると聞きましたが、
どのあたりかと想像しつつ歩きました。冬の陽ざしが暖か
く落ち葉の積もった上に落ちて、当時もこんな穏やかな年
末が、繰り返されていたのかと−−−。しかし、この階段
の上り下りは大変な労力だった事でしょう。

#0023 あかがね街道の終点、平塚河岸
ミケ  [2000年12月10日 17時45分]  [URL]  [MAIL]
利根大堰からまた上流へ、国道17号を越えて、そのすぐ
上流に架かる上武大橋まで行きましょう。ここは江戸時代
に足尾から利根川まで、馬の背に乗せて60Km,銅を運
んだあかがね街道の終点でもあり、銅問屋の置かれていた
平塚河岸のあった所でもあります。ここからは舟で、利根
川、江戸川と下って浅草まで送られました。
さて、ついでに上武大橋を尾島町の方へ行ってみましょう。
ここは、NHKでドラマ化された「太平記」の里です。町でも
遺跡の保存に力を入れており、新田一族ゆかりの神社仏閣
が数多く残されています。歴史公園にある、東毛歴史資料
館を訪ねて、予習をしてから、あちこち見学される事をお
勧めします。資料館の庭には、太刀を両手に拝して戦勝を
祈念する新田義貞公の像があり、「鎌倉」という歌の一節
〜稲村ヶ崎名将の、つるぎ投ぜし古戦場〜を思い出しまし
た。中世の一大ロマンですね。尾島町は徳川氏発祥の地と
しても有名ですが徳川という所にある千姫ゆかりの縁切寺
満徳寺は幕府から特別許可を与えられた寺で、平成4年に
文献に基づいて再建されました。今も地名が「徳川」とい
います。
また、平塚河岸跡に戻りましょう。今は何も無い広い河原
に大利根の流れ。そして、石という石が皆丸いのです。水
の力は偉大ですね。千姫(実際に来たのは身代わりの方?)
も、新田義貞も、銅を運んだ人達も、馬も、皆がこの河原
に立って丸い石を見た事でしょう。私ものどかな陽ざしに、
下流の館林出身の作家、田山花袋の世界にいるようなその
風景に見とれたのでした。

#0022 利根大堰でサケの遡上を見る
ミケ  [2000年12月03日 17時55分]  [URL]  [MAIL]
北川辺町で利根川と合流する渡良瀬川ですが、鉱毒事件
当時は洪水のたびに利根川の水量に負けて逆流し、一帯
に鉱毒水を溢れさせ大被害を与えました。その逆流水は
雲龍寺の前、足利迄達したという事です。大小、多くの
河川が近い距離で合流する平坦地であり、泥土が溜まっ
て天井川になっている状態ではやむを得ない事だったか
も知れません。現在ではそれぞれ護岸工事がなされ、堰
が造られて、洪水の心配は、ほぼ、無いと思われますが、
人工的なセメントの中を流れる川には、昔、上って来た
サケも見られなくなっていました。水の汚染と堰がじゃ
まをしている為だそうですが、川を下った時とは様変わ
りした川にサケも戸惑う事でしょう。
北川辺町から利根川を上流へ、川俣事件の明和町を過ぎ
て千代田町の利根大堰に行ってみましょう。ここは堰の
横に魚道を設けて、遡上してくるサケの観察が出来るよ
うになっています。利根大堰は河口から150Kmだそう
でサケはこの上流の前橋市の市民団体「利根川にサケを
呼び戻す会」で毎年放流される稚魚が4年間の海での生
活を経て、産卵のために故郷の川に戻って来るのです。
1983年は、わずか21匹だったのが、昨年は516
匹を確認したそうです。11月の末に行ってみると魚道
に大きいのが3匹入っており「よく帰って来たね」と声
をかけたい気分になりました。今年もまだこれから、
12月いっぱいは遡上するサケが見られるそうです。
場所は千代田町から対岸の行田市へ、利根大堰を渡り、
土手をすぐ左折して河原へ降りますと、ちょうど堰のま
下の所に観察室の入口があります。この堰は東京都の水
源にもなっており近隣の農業用水にも引かれている重要
な所です。ここからは、上毛三山から日光男体山、筑波
山、秩父連山、富士山と、よく見えて堰の水と空が広々
と美しい所です。なお、近年は渡良瀬川にも少しずつサ
ケが戻って来るようになり「渡良瀬川にさけを放す会」
の方々の努力が実りつつあります。今年の報告が楽しみ
です。

#0021 埼玉県北川辺町の故田中正造翁の墓
ミケ  [2000年11月26日 22時13分]  [URL]  [MAIL]
前回、渡良瀬川が利根川に合流してしまったので、
久しぶりで足尾に行きたいと思っていた所へ、埼
玉県北川辺町にある北川辺霊場の正造の墓前で毎
年行われる祭祀のもようが報じられた埼玉新聞の
コピ−を送って頂きましたので早速、引用させて
頂くことにしました。(会員外の私にまでお送り
頂き有り難うございます。)

田中正造翁しのび法要
88回忌に町民ら70人
廃村の危機救った北川辺の恩人
−日本の公害問題の原点とされる足尾銅山鉱毒事
件で公害反対運動の指導者として知られ、北川辺
町を廃村の危機から救った田中正造(1841−
1913)の88回忌法要会が4日、同町麦倉の
町立西小学校内に建つ分骨堂前で営まれた。−
法要は「田中正造翁顕彰会北川辺支部」(支部長
・倉上町長)が主催。一般町民ら約70人が出席
し、読経の後、次々と焼香していった。
正造は1913(大正2)年九月四日、七十三歳
で死去。遺骨は当時の住民らの要望で同年十月、
北川辺にも分骨埋葬された。このため町では十月
四日を埋葬記念日として毎年、法要を営んでいる。
同町(当時は利島村と川辺村)は今から約90年
前、廃村された谷中村と共に遊水池になる予定だ
った。この時、正造は地元で反対運動を組織する
と同時に、洪水で決壊した堤防を住民らとともに
自力で修復。納税や兵役義務の拒否を宣言して、
1902(明治35)年、政府や県の計画を断念
させた。同会によると、足尾鉱毒事件で活躍した
正造の名前は知っていても、町を救った闘いの歴
史を知る人は少ないという。法要会で倉上町長は
「ふるさとを廃村の危機から救ってくれた田中翁
は民衆とともに闘い、民衆とともに行動し、民衆
とともに生きた。時代が変わっても田中翁の偉大
な業績と公徳を1万4千人の町民とともに子孫に
伝えていきたい」とあいさつした。
H12.10.5の記事より
北川辺霊場は同町西小校庭のバックネットのすぐ
裏にあります。この辺の地名が「麦倉」というの
はいかにも穀倉地帯にふさわしい気がします。そ
れから、正造さんの選挙区は栃木県のはずなのに
茨城、群馬、埼玉と選挙区の外まで鉱毒に苦しむ
人々の為に働いたその誠実さにはただ感謝あるの
みです。

#0020 遊水池の周辺−4県制覇
ミケ  [2000年11月19日 16時45分]  [URL]  [MAIL]
シモレン煉瓦窯から川の方へヨシ原の道を行くと
野渡(のわた)橋に出ます。野を渡る…ここは野
渡という地名でもありますが、菜の花の頃は特に
長閑な所です。橋の近くで舟に乗って投網で漁を
していた方に伺いました。「前に川から泥を運ん
で駅の方に田圃を作った時に使った橋で、終わっ
た後も便利なのでそのまま残してもらったんだよ」
「お父さんは野木の方ですか?」「そうだよ。俺
のおふくろは谷中村から嫁にきてね、村に親戚も
あったんだがね、今は水の底ですよ」「そうだっ
たんですか…。本当に肥料のありそうな泥ですね」
渡良瀬川はこの橋のすぐ上で右から思川が合流し
て動くともなくゆっくりと流れていきます。川岸
に泥が溜まって流れが蛇行しています。昔、谷中
村では、洪水のたびに堤防を越えた水が上流から
腐葉土などの養分をたっぷり含んだ土を運んで来
て土の上に重なるので、むこう3年位は肥料要ら
ずで作物が良く出来たと本に書いてありますが、
この泥土を見ると納得できます。でも、今は鉱毒
の心配は無いのでしょうか。
左岸の土手を下流に行くと河川敷はゴルフ場でそ
のゴルフ場越しに谷中湖が見えます。野木町は、
栃木県ですが、ゴルフ場のここは古河市で茨城県、
そこからすぐの遊水池最南端の三国橋を渡ると埼
玉県、そのままR354から堤防沿いに佐野古河線
を走ると埼玉、栃木、群馬、埼玉、群馬、と標識
がめまぐるしく変わる所があります。県境は山の
頂上や川などが多いのでここはものの15分ほど
で四県制覇が出来る珍しい場所ではないでしょう
か。我が愛しき渡良瀬川は三国橋のすぐ下流で利
根川に合流してついにその名前が消えてしまいま
す。

#0019 お願いと訂正
ミケ  [2000年11月11日 18時31分]  [URL]  [MAIL]
足尾銅山のレポ−トを読んでくださっている
皆様いつも有り難うございます。今回のレポ
−トは#17、#18の順で読んで頂きたく
、またこれからもミケのレポ−トをよろしく
お願い致します。

#0018 渡良瀬遊水池の周辺
ミケ  [2000年11月11日 18時24分]  [URL]  [MAIL]

ヤルホ−ス乗馬クラブの庭にあ
り敷地内にはレストランもあり、で、ム−ドのある所で
す。昭和46年まで80年間稼働しておりましたが今は
「資料」として保存されています。ここで焼かれたレン
ガは利根川を下って東京へ運ばれ多くの建築に使われま
した。東京駅もここのレンガで造られたと言われていま
す。かの、原敬が東京駅構内で暗殺されましたが、「足
尾銅山の副社長となって谷中村を滅亡に追いやった原敬
が、谷中村の土で造られたレンガの東京駅で命を落とし
たのもなにか因縁を思わせる…」という説明を聞いた事
がありました。
栃木県を流れて来た思川(おもいがわ)というどこかゆ
かしい名前の川が、ここ、野木町で渡良瀬川に合流して
います。

#0017 渡瀬遊水池の周辺
ミケ  [2000年11月11日 17時59分]  [URL]  [MAIL]
前回の赤麻から、藤岡乙女線(県道50号)を走ります。
部屋、生井、など昔のままの地名が残る集落を通って巴
波川を越え、思川(おもいがわ)を渡り、このあたりは
正造さんが足しげく通ったであろうと思われる場所でも
あり、感慨深く思い乍ら行くと道は日光街道へと合流し、
右折します。そこから野木町(今や、ひまわりのイメ−
ジが定着し町のキャッチフレ−ズが`一流の田舎町`と
か)の旧下野煉瓦窯(シモレン)を訪ねてみましょう。
野木町は廃村になった谷中村の人々が多く移り住んだゆ
かりの地でもあります。シモレンは建てられて100年
を経て今も当時のまま、遊水池の堤防沿いにあります。
隣接する谷中村で採取された良質な川砂と粘土を使い赤
レンガが焼かれました。洋風建築が盛んに建てられた1
900年(明治33年、川俣事件の年)頃、関東だけで
もホフマン式煉瓦窯が21基あったそうですが、今、日
本全国でも4基しか残っておらず、野木のものは規模も
最大だと言われております。この堂々としたレンガ造り
のハイテク窯は今、ロイ <>"

#0016 赤麻沼再現
ミケ  [2000年11月04日 00時04分]  [URL]  [MAIL]
大平山から見える赤麻沼のあったあたりを訪ねてみたいと
思います。国道50号を越えて藤岡町に入ります。赤麻地
区は、遊水池の北を流れる渡良瀬川に沿って、特に土地の
高低差も無く道が続き、農地や里山が広がる、どこか昔の
鄙びた面影を感じる所です。ここに今、赤麻沼があれば、
そして鉱毒に侵されていなければ、今もそのまま人々の暮
らしが続いていたのではないかと想像出来ます。当時、こ
こから古河市(こがし)へは、4km四方の赤麻沼を舟で
渡り、巴波川(うずまがわ)を下って10kmほどで、近く
に石川沼という赤麻沼の半分位の沼もあり、大小の沼の中
を舟の往来が盛んでした。「私は除川(よけかわ、今の板
倉町)から足利へ、舟に乗ってお嫁に来たんですよ。昔は
どこへでも舟で行ったものです。」と、以前に訪ねた正造
の生家でその日開館の係りをされていた方に伺った事があ
りました。
1913年(大正2)、正造が最後の政談演説会の会場に
なったという赤麻寺は現在の渡良瀬川の左岸、堤防わきに
あります。私の訪ねた時、1997年6月21日は、台風
7号の過ぎた翌日で、赤麻寺の土手に上がって見ますと、
渡良瀬川はいつになく大増水で川幅いっぱいに溢れ、遊水
池まで包み込みそうで、まるで当時の赤麻沼が目の前に再
現されたかのような感動を覚えたのでした。

#0015 正造の故郷−6、赤麻沼
ミケ  [2000年10月28日 23時49分]  [URL]  [MAIL]
正造は晩年、故郷に寄せる思いを、「…たとへ小中に
数十年居らざるも、魂は常に小中の川原や林の中をか
けめぐります。…唐沢山の桜…氷室の雪…宝来山…彦
根山…」それからやはり気になるのが河川の様で「越
名の沼,渡良せ、旗川、秋山川、菊川、才川も毎日毎
朝、顔を洗へ(い)手を洗ふよふに見へるのです。」
と書いています。
今日は、栃木市と大平町(注、おおひらまち)にまた
がる太平山(おおひらさん、こちらはなぜか、「太」)
へ登り、正造の故郷を眺めて見ましょう。栃木市内か
ら車で15分程、この太平山神社はあじさいの名所で
その時季には必ずNHKで紹介される程ですからご存じ
の方も多いと思います。神社の参拝が済んだら、帰り
には謙信平からの景色を楽しみましょう。茶店も10
軒以上、趣向を凝らした外の縁台で、名物のだしまき
卵や、おだんごを食べながら「陸の松島」と称される
絶景を眺めるのはなかなかのものです。(鶏そば、ち
たけそばも◎)ここにある山本有三の「路傍の石」の
文学碑が有名ですが、私は近くに建つ松根東洋城の句
碑が目的です。
白栄えや(注、白南風)
雲と見をれば赤麻沼
平地の方を見ると空と地の交わる辺りに光る遊水池の
谷中湖が見えます。条件が良ければ肉眼でも新宿副都
心のビル群が見えるそうですが…。赤麻沼というのは
それより手前に広がっていた大きな沼で淡水魚の宝庫
であり雲と見まごう水の広がりがこの謙信平から見え
たのです。その沼は今はありません。谷中村が遊水池
化される事により、渡良瀬川を赤麻沼に引き入れた為
にたちまちのうちに土砂で埋まって無くなってしまっ
たのです。正造はこの沼の恵みで生計を立てていた6
00軒以上ともいわれる漁業関係者の生活の為にも、
この計画には、断固反対したのですが、人々はこの大
きな沼が土砂で埋まるなどとは信じられず、気が付い
た時には正造に言われた通りの悲惨な状態になってい
たのです。先見の明があった田中正造、その正造の語
録の中に今の時事に通じるものがありましたので引用
してみます。
「サテサテよの中も腐レハ腐るもの。今は官も民も西
も東も腐レタルモノノ如し、日本ハダメダメ」
ダメダメと正造さんが嘆いております。

#0014 10月21日のレポ−トの訂正をお願いします
ミケ  [2000年10月21日 23時30分]  [URL]  [MAIL]
タイトルの堀米地蔵堂の大きい→大榎
文中のけやきの大木→榎(えのき)
説明文の中で1869年は明治2年です
以上よろしくお願いします。

#0013 正造の故郷−5−堀米地蔵堂の大きい
ミケ  [2000年10月21日 14時17分]  [MAIL]
小中から佐野へ、県道赤見本町線を行くと左側に
堀米地蔵堂跡(地蔵堂は今は無く残るはけやき
の大木のみ)があります。正義感に燃える正造
は、名主として、領主六角家の不正を糾弾し、
その為入牢10ヶ月20日、釈放されて領内追
放となり、領地とは小川ひとつで隣接した、地
蔵堂で手習い師匠をして過ごしました。30人
ほどの子弟と100日余りの短い間でしたが、
正造にとっては生涯で最も心のどかな日々だっ
たと語っています。しかし、妻カツにしたら、
結婚早々、六角家に対する改革運動を開始し、
その為、入牢、領内追放、そして上京、そこか
らまた岩手県遠野へ、ここでも3年弱の獄中生
活、故郷の小中へ帰ったのが、1874年(明
治7)正造は34才になっていました。カツは
この間、正に忍耐の日々だった事でしょう。
地蔵堂跡に説明文がありますので、そのまま記
します。
田中正造ゆかりの地、堀米地蔵堂
明治年(1869)領主六角家(江戸)の獄より
釈放されて一家領内追放となった田中正造(29
才)は堀米町(となり村)の地蔵堂で手習い塾を
開く当時の塾は現在菊川町公民館のある位置
にあった正造は自らの苦しい戦いの一生
を振り返って堀米塾の当時を「正に是人生無量の
楽しみ、予が畢生の生活中,此時の如き興味多き
はあらざる可し」と述懐している明治29年秋
(1906)木下尚江、石川三四郎とともに佐野
町萬座(現在の万町会所北側)で開かれた時局演
説会の折り正造の案内で小中の生家を訪れた途中
地蔵堂に立ち寄り堂の前の榎の大木を見上げて
「手習い師匠の頃は子供の手ほどであったのだが
−」と独語を言いながら大変懐かしがったことは
有名であるここにある小さな地蔵堂と大き
な榎はは当時の面影を残している−

#0012 小中の人丸神社
ミケ  [2000年10月14日 11時58分]  [URL]  [MAIL]
浄蓮寺からまた北東へ少し歩いた所に人丸神社が
あります。祭神はいにしえの偉大な歌人,柿本人
麻呂で、小中村史には「元慶(げんぎょう)元丁
酉(877年)宮祠創建す」とあるそうで、「人
麻呂朝臣が小中村に来遊せられ、…賊に追われて
きび畑に逃れて一眼をきびの葉に刺され…」と伝
えられます。正造が奥州・岩手で上司暗殺のえん
罪により投獄の憂き目に遭った時、妻カツはこの
人丸神社に願をかけて正造の無事を祈ったという、
正造31歳の時でした。岩手県遠野に在ってはさ
すがの正造も東北弁がさっぱり解らず、通訳兼、
賄い婦として17歳の妾を置いていました。上司
暗殺の罪を着せられたのも、よそ者、であるのと
少しどもるくせがあり日頃から同僚との話し合い
でも、喧嘩を売っているかのようにとられやすく
えん罪はその為もあるかと獄中で本の文章の適所
を声に出して何回も読み、それを克服したという
時間を無駄にしない精神は見上げたものです。3
年弱の獄中生活を送ったのち、故郷の小中村に帰
りました。

人丸神社の境内は今もうっそうとした大木に囲ま
れ神社を囲むような池の湧水は、才川の水源とし
てまた農業用水になり、流れて下羽田町で渡良瀬
川に合流していますが、ここは正造の終焉の地と
なった庭田家のある所でもあり、鉱毒事務所を置
き、また正造の分骨地でもある雲竜寺のある所で
す。晩年河川の調査に歩き回っていた正造が死ぬ
80日前の1913年(大正2)6がつ15日の
日記のなかで故郷の人丸神社を
手洗へ(い)てみなくちそゝぐ田毎にぞ
いのるみなかみ人丸の水
と,詠んでいます。

#0011 正造の故郷−3
ミケ  [2000年10月08日 01時18分]  [URL]  [MAIL]
正造生家の裏を北に少し、2軒か3軒程、家の
角を曲がって行くと、菩提寺の浄蓮寺がありま
す。田中家の墓は格式のあるなかにも奢らず、
正造の性格を表しているかのように並んでいま
す。が、正造夫婦の墓はここには無くて、前述
の生家とは、道を挟んで向かい合っております。
寺の本堂を伺うと、右手に正造の絵姿が額に入
れて飾られてありました。正造コ−ナ−でしょ
うか。浄蓮寺では、毎年9月1日に正造とカツ
夫人の法要が営まれているそうですが、祭祀も
小中農教倶楽部に依って続けられており、郷土
の誇りでもあると思います。

#0010 足尾レポ−トについて
ミケ  [2000年10月01日 02時07分]  [URL]  [MAIL]
いつも足尾レポ−トを見ていただき大変有り難う
ございます。今回は不手際のため2回に分かれて
読みにくくなってしまい申し訳ありません。PCは
全くの初心者ですのでこれからも失敗が多いと思
いますがどうぞよろしくお願いします。

#0009 正造の故郷−2
ミケ  [2000年10月01日 01時50分]  [URL]  [MAIL]
正造の生家は祖父の代より、小中村の名主でしたが
その規模は田畑も2町歩足らずで「村でも中等の財
産に過ぎず…」と正造が言っている通りだったので
すが両親は教育も財産と思っていたのでしょうか。、

#0008 正造の故郷−2
ミケ  [2000年10月01日 01時19分]  [URL]  [MAIL]
ょうか。正造と妹リンの教育には深い関心を持っていま
した。利発だった正造(幼名、兼三郎)ですが、幼少の
頃はうぬぼれが強く、思いやりに欠ける子供だったそう
で、これは今風に言えば父親のみならず、母親もまた厳
しかったその反動だったのでしょうか。さて、父富蔵は
毎夜家族や下男に剣豪の伝記などの本を読んでくれたの
ですがそのような下世話なものは正造には不適当として
その場に入れてもらえませんでした。が、そこは正造の
こと、下男と毎日野良仕事の折りにその内容を話しても
らい、また、お返しに馬の尻に字を書いて下男に教えた
という事です。正造は自分が学ぶのもさりながら、人に
教える事にも興味を持っていたようです。、     

生家に向かい合って正造と妻カツの合祀された墓所があ
ります。死の床にあって、私有財産を全て故郷、小中村
の発展の為にと寄付した正造の意志に応えて、「小中農
教倶楽部」を創設し病床の正造に伝えました。将来の発
展は人々の教育によるという正造の精神は今も小中の人
々に立派に引き継がれています。