ミケの足尾レポート・バックナンバー 4 |
#0007 正造の故郷−1 ミケ [2000年09月24日 07時57分] [URL] [MAIL] |
田中正造は議員となってからは鉱毒問題に 奔走の毎日であり、たまに遊説などで生家 に寄っても,またすぐに旅の日常で亡くな るまでほとんど帰る事が無かったといわれ ていますが自分の故郷やそこの人々を想う 気持ちは人一倍のものがあり、数多くの手 紙が残されています。正造の妻カツは両親 の世話をしながら、小間物を商って留守を 守り、時たま、ふいに帰って来る正造を迎 えて、好物を作ったり、また破れた衣服を 繕ったりして夫の運動に協力しました。帰 ったと思えばまたすぐ出て行く、家計には 全くの無関心、何を考えているのかわから ない、こんな夫に対して、その運動や行動 思想の全てを含めての事でしょうが、カツ はある時正造に向かって、「あなたは、足 が地に着いていない」と評したそうで、正 造にとっては、痛い一言、だった事でしょ う。正造は、当時としては、女性の力を高 く評価しており、鉱毒問題でも、協力者に 女性の名前が何人も見えていますが、その 一番の協力者が妻のカツさんであり、正造 にとっても、無条件に安心出来る味方だっ た事でしょう。生家の母屋の縁先には今 もカツさんの姿があるような気がします。 |
#0006 太田頭首工 ミケ [2000年09月16日 18時29分] [URL] [MAIL] |
前回の、祈念鉱毒根絶碑の、太田市毛里田から 上流の桐生市広沢町5丁目に「太田頭首工」が あります。頭首工とは用水の取水施設の事で前 身は待・矢場堰で、ここから鉱毒水がこの地方 に流入してしまったのです。特に堰に近い場所 は深刻な状態となり鉱毒との長い闘いが続いた のです。農業には水が不可欠です。昭和39年 にはこの地域の農民に依り、政府と古河鉱業に 対しての陳情団がバス10台を連ねて上京しま した。「昭和の大押し出し」と言われています。 この結果ある程度の補償を受けられたのですが、 現在もまだ土地の完全復活には至っていません。 余談ですが、日本の土地、377,719平方 kmのうち86%が林野、耕地は残りの14%で、 5,204,000haでありそのうちの田は耕 地の半分の7%に過ぎないそうです。それも政策 に依り、減反、減反と言われ久しく、また若い 世代の農業離れが進み減り続けているという事 です。世界には食糧不足の国もあるのにどうし たものでしょうか。 |
#0005 第28回渡良瀬川鉱害シンポジウム ミケ [2000年09月10日 00時20分] [URL] [MAIL] |
暑さも暑し、8月27日(日)館林文化会館に於いて、 「川俣事件百年から21世紀へ」と題して開かれ、私 は、午前中の報告と、今年2月13日の一大行事川俣 事件押し出し再現ビデオ「百年振りに雲竜時の鐘が鳴 った」を見せて頂きました。兼ねてから各専門分野で 活躍されておられる著名な先生方のお話を拝聴出来る 絶好の機会なのですが、興味と言うか、趣味の域を出 ていない私は、恐る恐る参加させて頂いた次第です。 鉱毒根絶太田期成同盟会会長の板橋明治氏が,今まで の運動の報告をとても解りやすくお話して下さいまし た。お歳を感じさせない、そのバイタリティが、父祖 120年と言われる長い鉱毒との闘いを支えて来られ たのだと、深い感銘を受けました。鉱毒激甚地であっ た氏の出身地、太田市毛里田に、昭和52年に建立さ れた「 祈念鉱毒根絶 」の碑に刻まれた銘文 苦悩継ふまじ されど史実は伝ふべし 受難百年また還らず 根絶の日ぞ何時 は、板橋明治氏の書であり今もこれからも農民の心情 を訴え続けていくものです。 |
#0004 ちょっとひと休み…信州小谷村栂池にて ミケ [2000年08月19日 11時56分] [URL] [MAIL] |
残暑お見舞い申し上げます。足尾銅山も「研究」 ではなく「紀行」のつもりでやっています。私は 怪しいことはない、ただのおばさんなので安心し て下さい。これからもよろしくお願いします。 栂池は昔とすっかり変わって、ゴンドラリフト・ ロープウェイを乗り継いで高度を稼ぎ、天狗原か ら白馬大池へも容易に行けるようになりました。 秋の紅葉の時期にでも、また行ってみたいと思い ます。 |
#0003 根利山 ミケ [2000年08月13日 07時46分] [URL] [MAIL] |
初期の鉱石の製錬には大量の薪材、木炭を必要と したのですが、他にも坑内の支柱など坑木が必要 で、これらは銀山平からまた奥へ20kmほど離 れた群馬県利根郡根利という所にあった「足尾鉱 業所調度課根利出張所」でまかなっていました。 従業員830人、人口は1500人ほどで、児童 数も大正10年には294人おり、砥沢と平滝の 二ヶ所に分校が建てられていました。銅山が建て た私立の小学校なのですが、群馬県が管理し、教 員の任命権も群馬県、運営も群馬県。しかし、教 員の給料など全ての経費は足尾銅山が支出してい たという変わったものでした。 今、根利を訪ねてみると、根利川沿いにある根利 という集落は昔の場所ではなく、もっと北部の方 で、そこは銅山が借りていた国有林の一帯で根利 山と呼ばれ、皇海山から流れ出す栗原川の源流近 く、根利林業所はその砥沢という所にあったのだ とか。私も住人の方に尋ねてみたのですが、行く 道もなく、訪れる人もなく、当時の事はわかりま せんでしたが「崩れた石垣や古材が、かつてここ に人間が生活した事を物語るのみになった…」と 根利山会(小滝会と同じく、かつて根利で暮らし た人達の会で、機関誌「皇海」を発行している) の機関誌「皇海(すかい)」で語られています。 昭和15年4月には分校も廃校となり、30年間 の根利の歴史が閉じられました。 「我が夢の根利は山また青い山」 |
#0002 不幸な時代U ミケ [2000年08月04日 23時18分] [URL] [MAIL] |
今年もまた終戦記念日が近づきました――戦争末期 には金属類が不足し「供出」という形で軍用資材と して再生が図られましたが、この時、足尾製錬所の 構内は寺の梵鐘、小学校の校庭にあった二宮尊徳の 銅像などが所狭しと並べられ、次々溶鉱炉で溶かさ れた――ということです。 かつて銅山の初期に活躍した木村長兵衛の死を悼ん で建設された「木村長兵衛功業之碑」も古河家の茶 室の一隅に飾られていた市兵衛の等身大の青銅立像 も「特に市兵衛の像は炉に入れることは強くためら われたが許されず、特別に白木の棺に納めて炉に入 れ合掌しつつ見守った」と当時の関係者に語られて います。 私の田舎の家でも門の飾り金具やかたぬき錠などを 供出し、その後修復もされず、今に戦争を語ってい ます。また戦艦などを造る為、日本各地の名木、巨 木も供出されたのですが、こちらも墓地にあった何 本かの檜を切って出し、今も大きな切り株が残って います。お盆など墓地に行くたびに、その切り株の 意味を話してくれた祖父や父の無念な気持ちを思い 出します。今一人残った年老いた母は「門の飾り鋲 はどこの溶鉱炉で溶かされたのかね、足尾かね」と 聞く私に「さあ――どこへ行ったのやら。お墓の檜 だって果たして間にあったのかどうかね」と。平和 に感謝。 |
#0001 不幸な時代 ミケ [2000年07月30日 01時56分] [URL] [MAIL] |
第二次世界大戦が人類にもたらした不幸は計り知れない ものがありますが、ブレーキが壊れた車のように走りに 走った結果、多くの犠牲者を出してしまいました。 銀山平の現在キャンプ地を見下ろす小高い場所に、慰霊 塔が建っています。第二次世界大戦末期に足尾の労働者 が出征した為、その労働不足を補う意味で、中国各地か ら強制連行されてきた257名(17歳〜64歳)の捕 虜たちは、小滝坑での労働に従事させられ、短期間のう ちに109名の死者を出すに至りました。これは足尾に 限らず、日本各地の鉱山、炭坑、工場にも見られ、中国 人、欧米人、朝鮮人などの捕虜を含め、驚くなかれ72 万人以上の人々が強制連行されてきたという事です。 足尾銅山閉山の年、昭和48年にできた足尾のこの慰霊 塔は、高さ13m。庚申川の白御影石で作られ、台座の 109個の石は、次代を担う足尾の中学生が庚申川から 運んで日中の友好を念じ、犠牲者の慰霊と、戦争という 不幸が二度と起こらないことを願って積みました。そし て塔の裏面には、109名の名前と帰国にあたって書き 残された「痛恨詩」が刻みこまれています。正に痛恨、 悔恨の時代でありました。 |