ミケの足尾レポート・バックナンバー 3
生田龍作の活躍 No: 11 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/07/23 Sun 12:32:49
昭和になると、ようやく労働争議も落ち着き、会社
でも若い労働者が労働運動の代わりにスポーツなど
に打ち込むことを願って奨励したものですが、ここ
でも生田龍作が大活躍することになります。スポー
ツだけでなく、芸術にも造詣が深く、接する人を魅
了する不思議な人柄が備わっていたといわれる彼は、
昭和20年には足尾労働組合同盟会の会長になり、
22年には県会議員に当選して、当時陸の孤島とな
っていた足尾の為に交通ルートを整備し、食糧に乏
しい足尾に恩恵をもたらせ、県と足尾のパイプ役に
奔走しました。労働組合は日本で最初に出来たもの
で、足尾の労働者の素早さと、先見の明に驚かされ
ます。

さて、昭和初期に戻って、龍作さんの活躍と言えば
当時の足尾銅山の体育行事の華、全山運動会です。
ここでも彼は世話役のかたわら、有力な選手を育て、
小滝を優勝へと導きました。全山とは本山、通洞、
小滝、製錬、工作、浄水、連合(学校と病院の職員)
の7組に分かれており、ふだん娯楽の少ない従業員
にとって、特にスポーツマンには血沸き肉躍る行事
であり、選手に選ばれた者は職場の名誉と期待をか
けて、幾日かは仕事も休んで準備と練習に励むとい
うほどで、妻子を実家に預ける者もいたとか…「優
勝の興奮たるや、賞品の鏡樽やビールでの祝勝会に
小滝中お祭りのようでした」と、小滝の人々は今も
昔をなつかしく思い出す事でしょう。小滝の里碑に
並んで、生田龍作作詞の小滝応援歌の碑が建ってい
ます。「山晴れ水澄む我らの小滝…」

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お知らせ No: 10 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/07/16 Sun 19:32:29
今週の足尾レポート&トップページ更新は、管理人多忙の
ためお休みさせていただきます。次週、ご期待下さい。

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世話役・生田龍作登場の周辺 No: 8 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/07/08 Sat 19:23:21
龍作が父・松蔵の跡を継いで小滝生野組の組頭(世話役)と
なったのは、大正時代に入ってからの事で、彼は21歳の若
さでした。

大正8年11月の足尾銅山大労働争議は、一部の飯場頭に対
する坑夫の不満が発端で、飯場制度の廃止を要求してストラ
イキに突入したのですが、リーダーとなったのは当時足尾に
本部のあった「大日本鉱山労働同盟会」の会長だった松葉鏗
寿という元・飯場頭で、その弁が「頭役という職は坑夫が辛
苦の結果得た賃金の頭をはねて生活するという罪なもので、
自分の良心が許さないから辞めたのだ(自ら辞職していた)。
…こう見えても自分は第2の田中正造をもって任じているも
のである…」田中正造は、大正2年に亡くなっていますが、
その精神は足尾にまで受け継がれていたようです。この大争
議の結果、飯場頭は世話役となり、会社から給与が支払われ
ることになりました。しかし、明治以来慣れ親しんだ飯場制
度は温存され、飯場頭という呼び名も続いていましたが、日
本が太平洋戦争に負けた後、民主化の波は足尾にも例外なく
押しよせ、ついに飯場制度にも終止符がうたれたのです。

さて本題の生田龍作は、明治25年1月25日、足尾の小滝
爺ケ沢で誕生。小滝小学校から宇都宮中学へ進学し、喧嘩の
雄であったと、自分でもよく自慢話をしていたそうな…晩年
の県会議員時代の写真は、おだやかな優しい鶴のような感じ
であるが、そのまなざしは意志強く、若き飯場頭の当時その
ままのように思われます。

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生田龍作のこと No: 7 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/07/01 Sat 23:05:24
以前、本山の飯場頭小柳精平のことを書きましたが、
小滝では生田龍作を忘れることはできません。足尾
銅山の初期には、その隆盛のうわさを聞いて日本全
国から坑夫が集まりました。中には夏目漱石の小説
「坑夫」の主人公の若者の様にだまされて来た人も
居りましたが…

さて龍作の祖父・吉本利助は明治17年、一家をあ
げて生野銀山から足尾に来ました。5人の息子は坑
夫として本山と小滝に住み、いずれも飯場頭となっ
た傑出した坑夫一家でした。四男の松蔵は、生田家
の養子になっていましたので、生田龍作も父のあと
をついで飯場頭となりました。

生野銀山から足尾に来た坑夫は多かったようですが、
作家の立松和平氏の曾祖父・片山市右衛門もその一
人で、フィクションともノンフィクションとも思え
る著書「恩寵(おんちょう)の谷」にそのいきさつ
が詳しく書かれております。当時、生野銀山は技術
的にも進んでおり、いわゆる坑夫の引き抜きも多か
ったという事です。

「大江山 生野の道の遠ければ まだ文も見ず 天
の橋立」と百人一首に詠まれた古い歴史の生野銀山
も足尾銅山と同じ年に閉山を迎え、その跡は坑内観
光として翌年(昭和50年)「シルバー生野」とし
て再出発したという事です。

足尾銅山観光は、ずうっと後年の昭和55年の事で
した。立松氏のひいおじいさんの片山市右衛門さん
は飯場頭をしていましたが、祖父・浜雄さんはやさ
男だったため飯場には向かず、宇都宮に出て銅山に
納める海苔やお茶の商売をしていました。立松さん
のルーツは足尾なのですね。

生田龍作さんの事は次回にします。小滝小学校の続
きにあった新長屋の社宅に、この辺かと思われる彼
の住居の跡がありますが、すっかり木々に覆われて
道の跡、水場などが少しわかるほどで、すっかり自
然に返ってしまいました。

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私立マンモス小学校 No: 6 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/06/25 Sun 00:36:42
小滝の里碑から少し下流の古足尾に本山小学校の
分校として小学校ができたのは、明治26年の事
です。

職員4名、児童数132人で正式名称は「私立古
河足尾銅山尋常高等小学校小滝分校」という長っ
たらしいもので、当時日の出の勢いの足尾銅山小
滝の人口増加に伴って、大正8年3月には児童数
1035人、学級数17学級となり、15教室し
かないため、2部授業で対応したり、1クラスが
84人とか74人とかのスシ詰め状態もありの今
では考えられない多人数クラスで、もちろん「分
校」の2字は消えています。

小滝は本山や通洞から離れており、小学校も1校
だった事もあって、人々の心もひとつによくまと
まり「人情の小滝」を自認していました。昭和2
9年の閉坑で、31年には閉校となった小学校の
跡は、今も校舎の土台がはっきり残っており、校
門までの道もそのままで、緑におおわれてたぶん
当時のままだと思います。道と並行して流れてい
る文象沢のサラサラと流れる音が聞こえる静かさ
の中に、猿の群れが遊んでいたりして、当時の子
供達の姿が重なって見えてきます。

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緑の小滝 No: 5 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/06/18 Sun 06:22:06
小滝坑は明治16年に本山坑と貫通し(長さ
3005m)、次いで立坑で通洞坑と(長さ
3276m)連絡するようになり、備前たて
山を三坑から堀り進む事になりました。

しかし明治30年、渡良瀬川下流の農民が鉱
毒によって生産を失ったとして団結し、田中
正造と共に銅山の鉱業停止を訴える声が大と
なり、よって鉱毒防止の為、小滝の製錬所と
選鉱所は本山に統合されて廃止されてしまい
ました。が、採鉱部門はそのまま残り、人々
の生活に必要な病院、小学校から社宅、商店、
はては遊郭までが庚申川両岸に建ち並び、山
の斜面には石段を積み上げて社宅が、商店や
遊郭などは庚申川へ乗り出すように杭を打っ
て、その上にまで建てられたのだそうで、人
であふれていたのですね。

小滝の里でよく目をこらして見ると、製錬所
や選鉱所のどの部分だったのか、レンガが残
っています。そしてそれこそたくさんの石垣
と石段が当時の暮らしを語っています。

五月の小滝は、新緑と庚申川から聞こえるか
じか蛙の合唱、コロコロコロ…樹々からはひ
ぐらし蝉のカーナカナカナカナ…と全山に響
く大きな声に包まれて、これは今も昔も変わ
らないのではないかと思われます。仕事を終
えて地上に上った坑夫さんもホッとして生き
返る思いがしたことでしょう。

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小滝の里の広場から No: 4 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/06/11 Sun 08:05:26
庚申川を少し登った右手対岸に小滝坑が閉じられたまま。
この坑口にまっすぐ向かってかけられた鉄の橋も真っ赤
に錆びています。反対側(燕岩)には岩に掘られた火薬
貯蔵庫があり、その右手外れに入坑前に坑夫が試運転?
をした、削岩機の穴がたくさんあります。閉山後46年、
何もかもが木々の緑に覆われてしまった小滝路の中で今
も生々しく当時のままで、触れると昨日の仕事だったか
の様に思われます。

坑口周辺が、最近セメントで固められ、苔むした昔の風
情がすっかり失われてしまいました。崩れそうで危険だ
ったのでしょうか。坑口見学の道の安全の為でしょうか。
ガッカリです。ホントに。写真は工事以前のものですが、
何とか保存できなかったのかと大変惜しまれます。

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小滝の里 No: 3 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/06/04 Sun 05:42:13
国道122号に沿う足尾銅山の本山地区のハゲ山に対して
小滝路は正反対に緑濃く、庚申川の清流と共に銀山平まで
5.3Km、佳境とも言える四季に富んだ所です。前回の
ヤシオツツジだけでなく、春の新緑、夏は涼しい緑蔭、秋
は色鮮やかな紅葉、冬は行った事はないのですが白一色の
墨絵の世界でしょうか。

ここに小滝坑があり、最盛期には12000人以上の人々
が暮らしていた(昭和29年閉山)事は、全ての施設や住
居が何も残って居らず無人と化した今、想像することはで
きません。閉山後、当時小滝に住んでいた会員の方々によ
って「小滝会」が作られ、2年毎に銀山平の国民宿舎かじ
か荘で会が持たれているという事です。

昨年の5月29日(その日が第12回)、偶然小滝の里で
周囲の景色を眺めていた私でしたが、会員の方々が車から
降りてなつかしげに声を掛け合い、あいさつを交わされな
がら記念写真を撮られたり、碑の背面に彫られた親しい方
々の名前を確かめたりされておられる場面にあい、私も仲
間の様な気持ちでカメラのシャッターを押していました。
200人以上の参加者があるそうです。小滝に住んでおら
れた頃は小・中学生だったお年頃の方が多いようで、昔に
かえってなつかしいお話が尽きない事でしょうね。次回も
小滝です。

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舟石のことあれこれ No: 2 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/05/27 Sat 18:35:47
たて山登山口にあった舟石という集落は、
大正年間最多47戸を数え、銅山の仕事の
かたわら農業で生活しておりました。主に
野菜作り(大根、じゃがいも、菜類など)、
他に山菜採りや、幾筋もある沢でのいわな
獲りなどで、子供は本山か小滝の小学校へ
標高差の大きい4kmを通うという大変な
通学路でした。

雪も深く積もり、銅山の主要施設からは少
し外れた所だったためか、最後(小滝坑閉
山の昭和29年)まで電灯が入らず、ラン
プの生活でした。

今も林道沿いには、家の石垣や畑の形、家
敷稲荷、水仙の株や庭木の大きくなった物
などが認められます。舟石には、最近10
台ほどの駐車場ができていますので、利用
されると登山も楽になります。

小滝路から銀山平、舟石、本山、龍蔵寺の
ある赤倉まで、関東ふれあいの道(赤銅の
道)と称してハイクングコースになってい
ますが、備前たて山は「登山」の心構えで
行った方が安全だと思います。

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ご訪問ありがとうございます。 No: 1 [返信][削除]
 投稿者:ミケ  00/05/27 Sat 06:44:11
5月28日より、こちらに引っ越しさせて
いただきました。日記モードになっており
ますので、ご感想は「ミケの部屋・何でも
カキコ」までお願いいたします。

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