ミケの足尾レポート・バックナンバー 2

ヤシオ咲く 備前たて山 歴史踏む
ミケ(17) 投稿日:2000年5月21日<日>23時46分/群馬県/女性/55才
備前たて山、かつて銅を掘り出したこの山へ、
5月半ばヤシオツツジを観に登りました。

銀山平と本山を結ぶ舟石林道(10km弱)
の途中、かつての「舟石」という集落から登
山が始まります。舟石には大きな山桜の木が
何本かあり、まだ散り残って白い雲のように
見えます。

頂上までは1.5kmほど、途中の道もよく
整備されています。山は太古の雰囲気をただ
よわせており、この山の中を坑道が縦横に掘
られているとは想像できません。

半分ほど登ると頂上付近がピンクに見えます。
ここでまた元気を出して登ると、尾根道にな
りヤシオツツジの古木のトンネルと言えば言
い過ぎでしょうか。

こりゃすごいやー。うすいピンク、濃いピン
ク、道にまで散り落ちて、今がまさに見頃。
見ても見ても見飽きません。ためいきのうち
に頂上(1272m)です。前は断崖の様に
切り立った頂上から下に製錬所がよく見えて、
かつての銅山の銅山たる事を改めて感じる所
です。銅鉱石とこのピンクのヤシオツツジの
両極端なこと!

「ヤシオ咲く 備前たて山 歴史踏む」
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足尾駅周辺
ミケ(16) 投稿日:2000年5月14日<日>07時55分/群馬県/女性/55才
今のわたらせ渓谷鉄道の前身は足尾鉄道で、
当時足尾駅は銅山の貨物集散拠点として、
構内には古河の倉庫が並び、人の往復と貨
物の輸送に日夜、大変な賑わいだった事が
想像されます。銅山で使用する生産資材、
従業員や事務所で使用する消費物資等、最
盛期には38000人を超えていた、足尾
の人々の生活を支えていた駅です。駅周辺
に掛水倶楽部、鉱業所、役宅等があります。
このひとつ前の駅が「通洞」で、むこうが
終点の「間藤」です。通洞には坑口があり、
間藤には製錬所があります。この足尾駅に
は、今は貨物もなく、旅客輸送のみの静か
な場所で、現場(採掘や製錬)とは少し違
った感じがします。名残として、多数の引
き込み線があります。掛水倶楽部に来られ
た代々の社長も、銅山のお偉いさんもこの
駅を利用され、同じ風景を見た事でしょう。
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銅山の厚生施設・豊潤洞
ミケ(15) 投稿日:2000年5月7日<日>07時55分/群馬県/女性/55才
前回の掛水倶楽部と同じく、銅山の施設
ですが、こちらの方が後(大正12年)
になります。

もとは大磯にあった陸奥宗光の別邸で、
宗光の没後(明治30年)譲り受けたも
ので、関東大震災で大破したのを期に解
体されて、足尾に移築されました。陸奥
宗光の次男・潤吉が市兵衛の養子になっていた
のに因んで豊潤洞と命名されました。

銅山は明治の草創期、大正の安定期を過
ぎて、昭和となり、労資関係の円滑化を
願って福利・厚生施設として考え、のち
に社員の勤労奉仕でグラウンドを作り、
全山運動会に園遊会、社員研修会、合宿、
社員家族やグループのレクレーションに
と大いに活用されました。大磯の海から
足尾の山奥へ、第2の人生?に本人?も
満足したことでしょう。なお、東京北区
の古河庭園も陸奥から買い取り、手を入
れたものです。名園ですね。

さて、現在の豊潤洞は足尾町が管理して
いるということですが、とにかく大変大
きなわらぶき屋根で、修理も大変なこと
です。中も当時そのままにいくつもの立
派な部屋がありますが、広い風情ある庭
園も建物も周囲の自然と混然一体となっ
て、今は当時の賑わいをただ想い描くの
みです。
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足尾の春
ミケ(14) 投稿日:2000年4月29日<土>12時32分/群馬県/女性/55才
平地の桜は4月初めに終わってしまいましたが、
4月23日、足尾はまだつぼみが少しゆるみは
じめたばかり。1ヶ月以上遅れています。観光
協会の方が「つい最近まで山は雪で真っ白だっ
たんですよ。でも、つつじも山吹きも桜もこぶ
しもいっせいに咲くので、それはすばらしいで
すよ。」と、あと10日後の風景を想像するか
の様に話されました。

役場の庭で、正午に町に流れる「足尾の四季」
の美しいメロディを聴いてから、掛水倶楽部に
行ってみました。庭にピンクのヤシオツツジが
咲いて、屋根の色とよく調和しています。ここ
は明治32年(33年は川俣事件の年で下流は
大変でした)銅山の迎賓館として建てられのち
40年には鉱業所や幹部役宅も集約されて、銅
山の管理部門の中枢となりました。

今は鉱業所はなく、倉庫が一棟だけ残っており、
跡地はテニスコートになっています。役宅は古
いながらも当時のまま棟を並べ、住んでいるお
宅もあるようです。掛水倶楽部は手入れをされ
て、中も当時のままに良き時代を語っています。
足尾の春はこの連休中が最高のことでしょう。
足尾の四季「春晴千里 水清く霞とまごう桜花
いま酣(たけなわ)の渡良瀬や」
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正造は語る
ミケ(13) 投稿日:2000年4月22日<土>08時21分/群馬県/女性/55才
正造は生涯を通じて、たくさんの言葉や日記、
句、歌などを残しておりますが、それは今で
も生き生きと私達に語りかけてくるようで名
言にあふれています。

雲龍寺境内の碑に刻まれている「毒流す わ
るさ止めずば 我止まず 渡らせ利根に 血
を流すとも」は鉱毒停止運動の旗印ですね。
古句をもじった「古河や 乞食飛びこむ 銭
(かね)の音」という辛辣なのもあります。

今は花の時季なので…「人は皆 桜のころに
なりにけり うかれあつまる 人の花山」「
雨降れば 馬鹿も落胆 花の山」「酒呑みて
気違いになる 気違いは 世の気違いと 違
う気違い」「一心に 花はさけども 見る人
の おもひまちゝゝ 春はいろゝゝ」ピッタ
リです(明治30〜36年)。

判じものの様な「おもねるを よろこぶ家は
おもねるを 好みおもねる 人のおもくる」
おもねるとはへつらう事ですね。

今年の2000年問題にうってつけのすてき
な一句「セコンドや 年の峠を ピョンと越
し」(明治41年12月31日)。

政治家の皆様に贈りたい。「位置の争」とし
て、「椅子は何の上に位置するか、床。床は
向の上、地。地は国、椅子をおもふ人は国を
おもえよ。国をおもわざるものは、椅子の上
に居るべからず。椅子のみが必要なら、古道
具屋の店頭にあり。何を苦しんで対外にもと
めんや」「位置、国の上に椅子あり。椅子の
上に国はあらず。」そのとおりそのとおり、
大拍手です。

私の好きなのに「ものすれど 見る人なくば
ほごの神 くづ紙籠の 底の神様」というの
もあります。これも大事。自己満足の神様で
す。正造は、その時々の自分の気持ちを正直
に、時には皮肉いっぱいに書いていますが、
平成12年の今も斬新で驚くばかりです。
「来るとしも 又くるとしも くるとしも 
くるくるめぐる としはくるくる」
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高徳秋水は
ミケ(12) 投稿日:2000年4月2日<日>13時05分/群馬県/女性/55才
正造の直訴状を書いた人物です。当時30歳の
新聞記者で、語学に秀で、英語、中国語(漢文
で手紙を出すほどだったとか)はもちろん、母
国語である日本語は直訴文に見られる通り、名
文家として知られておりました。しかし鉱毒問
題に関してはさっぱりとしており、若者の転身
の早さは昔も今も同じらしく、1905年には
渡米してしまいます。なかなかの思想家でもあ
り、顔は西武の松坂くんにひげを生やしたと思
えば大当たり。映画「襤褸(らんる)の旗」で
は、若き中村敦夫さんが演じており、正造役の
三国連太郎さんと共にその魅力は大変なものが
あります。

帰国して思想犯として(大逆事件)捕らえられ、
1911年(明治44年)刑死。明治44年の
正造の日記には特別これに触れて書かれており
ませんが、正造はこの頃はまだ関東各地の河川
調査に精力的に取り組んでおりました。秋水の
事がいつも気持ちの中にあったのでしょう。日
光からの帰り、栃木県粟野町へ来て、1月24
日の事ですから寒さに参ってしまい、小林さん
という家に車夫と「厄介となる事になれり」そ
して「高徳止宿の感」として昔日を振り返って
おります。

『予今を去る26年の已前に此處に止宿す。野
菜料理は蕨ぜんまいと油揚にて甘なかりし事を
思出でて、又た之を望む。主人笑って今は無し
と答ふ。出耒秋出耒春に皆な売払ふなりと云ふ
(以下略)』この年高徳秋水は40歳の人生を
処刑という形で終わったのですが、同じ料理を
かつてどこかで一緒に食べた事があったのでし
ょうか(私の勝手な想像ですが…)。正造のし
みじみとした気持ちが伝わってくるようです。
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葦焼き見物
Mike(11) 投稿日:2000年3月20日<月>07時39分/群馬県/女性/55才
昨日3月19日は、朝から風も弱く、天気も良く、
絶好の葦焼き日和になりました。私は旧谷中村合同
慰霊碑の所から入ったのですが、土手には見物人が
いっぱいで、焼け跡はすでにずっと遠くまで広がっ
ていました。今年は乾燥していて、具合がよかった
のでしょう。カメラマンもいっぱいで、焼け跡に入
って傑作を狙っている方も居られます。

私は北門の側へ駐車して、歩いて谷中村跡へ行って
みました。ここはまださかんに燃えていて、人家の
あった竹藪に火が移ると、爆竹のようで賑やかです。
動物は逃げてしまったらしく見かけませんでしたが、
鳥は飛べるので残っており、焼け跡ではもうヒバリ
がさえずっていました。それからキジを3羽見まし
たが、尾の長いオスばかり。近くに目立たないメス
も居るのでしょう。枯れた葦は炎を高く上げてバリ
バリと燃えて、そしてあちこちに人家跡の水塚が古
墳のように現れました。田中正造が訪れた事もあっ
たでしょう。雷電神社の水塚の上に人が何人か、火
が横に長く連なって燃えるのを見ていました。この
葦焼きが終わるといよいよ遊水池も春。動植物の生
き生きと活動する季節の到来です。

附:3月18日教育テレビ「日本・映像の20世
  紀」は栃木県で、番組中では足尾銅山のこと、
  谷中村と田中正造のことなどが紹介されてお
  りました。再放送をご覧下さい(参考までに)。
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鉱毒問題雑感
ミケ(10) 投稿日:2000年3月12日<日>07時16分/群馬県/女性/55才
当時、足尾銅山のような公害問題は他にもあったの
ですが、問題として表面化する事は少なく、それは
田中正造のような弱者をまとめるリーダーがいなか
ったからともいえます。もし農民が運動を起こして
も、何らかの圧力で問題化以前に制圧されたのかも
しれません。

ところが正造は、前にも述ったように「悪い者は悪
い」「怒るべきには怒るべし」の観点で、性格もま
た公明正大そのもので、相手にとっては手こずる存
在だったことでしょう。原敬の政治家としての本な
ど見ると、足尾銅山の副社長うんぬんという記述は
ありますが、田中正造とか農民の請願に関する事は
出ておらず、拍子抜けの感があります。

原敬は、幼時から頭脳明晰にして他より抜きん出て
おり、自らも自覚していて、当然のようにのちに一
国の総理となり(原敬は政治が飯より好きだったと
か)、国内外の問題で多忙を極める要職に在っては
谷中問題などはわずらわしかったのか、または問題
を抵く見ていたのか、彼にとっては細事だったらし
く、大問題だった被害者側からするとやりきれない
ものがあります。

さて、足尾鉱毒問題がなぜ大事件になったのか。そ
れは田中正造という人物がいたからに他ならないと
いう事になります。正造は「最弱が集まって最強に
あたるのが余の一番の楽しみ」と言っております。
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被害民と共に
ミケ(9) 投稿日:2000年3月5日<日>06時57分/群馬県/女性/55才
田中正造の生涯をかけた谷中村は、1906年
(明治39年)ついにその名が消され、藤岡町
の一部になってしまいました。1907年に強
制破壊に在った16戸の残留民が仮小屋で抵抗
を続けて、完全に立ち退いたのは、10年後の
1917年でした。正造が庭田家で亡くなった
のはその間の1913年(大正2年9月4日)
の事です。家を破壊された農民が、村から退去
する事なく、仮小屋を建てて生活を始めたのを
見た正造は(これは正造の指導でも何でもなく
農民が自分からやった事)農民に対する見方が
変わり、自分達の先祖からの土地と農民の命で
ある土を強く愛し、守ろうとする姿に、真の農
民の姿を見て「自分が農民達から学ばなければ
いけない」と思ったとか。正造も「余は下野の
百姓なり」と言っています。代議士時代は「怒
るべきには怒るべし」の精神で、議場に鳴り響
く怒罵は衆議院の名物でした。トッチン(栃木
鎮台)とか「田正」と異名をとり、新聞記者に
は議会で野次をとばす正造は人気がありました。
今の「キムタク」というのと似ていますね。
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原敬が銅山に「手心」
ミケ(8) 投稿日:2000年2月27日<日>06時21分/群馬県/女性/55才
直訴後の1902年頃は銅山の鉱業停止を要求する
請願運動が最も盛んだった時期ですが、1903年
には谷中村遊水池案が浮上し、同じ年、かの古河市
兵衛が亡くなりました。

翌年の1904年に正造は、谷中村を守るため村民
となって闘いを続けていましたが、日露戦争が始ま
り(有名な203高地占拠)被害民も招集されて行
ったのです。村の事も気がかりなのに出征とは…

1905年、西園寺内閣が設立され、原敬は古河鉱
業の副社長に就任し、翌年1906年には内務大臣
となって谷中村を滅亡へと追い込むのです。14歳
の時初めて正造の演説を聞き、以後正造の秘書とも
言うべく一生を正造と共に歩んだ島田宗三氏(残留
民の一人・1890〜1980)は「原敬が古河鉱
業の副社長に就任して会社の実権を握り、転じて内
務大臣になると、知事や警察をあごで使って谷中村
を取り潰した。谷中村と田中翁に対する行動はまる
で仇敵に対するような残虐ぶりを示したものである」
と大憤慨しています。また正造を「いわばボランテ
ィアの先駆者だった」とも言われています。いつの
時代も、開発か環境破壊か難しい問題です。
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川俣事件その後〜地方の学生の日記に見る鉱毒問題
ミケ(7) 投稿日:2000年2月21日<月>01時15分/群馬県/女性/55才
先週の川俣事件100年祭も盛会で、参加者
約600名というのを聞き、人々の関心の深
さと特に若い方達の多さが力強い思いでした。

ここで個人的な事で恐縮ですが、私の関係し
た鉱毒事件として、祖父の日記を紹介します。
祖父は明治15年(1882)の生まれです。
1900年に旧制松本中学へ入学し、尚志社
(松本中学の寄宿舎)に入り、ここで5年間
を過ごしたのですが、丁度翌年(明治33年
12月10日)正造の直訴がありました。そ
のため、鉱毒地の惨状が広く伝えられ、特に
全国の学生は正義感に燃えて、視察や救済の
カンパ、演説と盛んに活動していた時でした。
1902年(明治35年)5月3日の祖父の
日記の中に「足尾銅山、幻灯演説会に出席」
と題した一文がありますので、そのまま写し
てみます。

『花は散り、青葉萌え、風は薫る南窓の下。
この頃こそ年中の最高時期なるべし。今明晩
松前座に於て、鉱毒地<足尾銅山>視察報告
慈善幻灯会を開く。見に来れとて入場券を中
学生に配布せり。大人は四銭なれど、入場券
を持参ずる者には半額なりとの事なり。寄宿
生一同にて夕景より見に行く。演説は頗る拙
なれど、鉱毒地の状況、随分目に見ゆる様な
り。幻灯は滑稽画数葉、鉱毒地景況数葉に過
ぎず、又慈善菓子を買い給えとて売る。煎餅
5,6枚つめて一袋2銭なり。我らはかくの
如き会を開き、却って鉱毒地被害民に対する
風情を滅せしめん事を恐る、聞く、この会は
もと松本仏教青年会なるものが二名の視察員
を被害地に遺り共、視察員がこの度帰り来り
て報告の為に開けるなりとぞ。我は思う、か
かる会を開くには充分の用意と慎重の態度と
なかるべからずと。』

卒業後は、医師免許をとるため東京に居り、
中江兆民の選挙運動に参加したりした事など、
後年話を聞いた事がありましたが、残念なが
ら田中正造の事は聞いたのかどうかも全く覚
えておりません。私も子供だったのと関心が
なかったのとで、本当に残念だったと思いま
す。
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川俣事件とその他請願のこと・その3
ミケ(6) 投稿日:2000年2月15日<火>07時34分
2000年2月13日、ついに押し出し再現が
計画通り行われました。100年前の天気は、
雲龍寺を出発するとき、男体山、赤城山が晴れ
た空によく見えてとても寒い日だったという事
ですが、今日は風もおだやかな快晴に恵まれ、
絶好の押し出し再現日和というところでしょう
か。

9時に雲龍寺を出発。私は川俣の現場へ行った
のですが、早くも11時半には先頭の方が到着
です。みの、笠の姿でムシロ旗やら白い布にス
ローガンを書いたものを風になびかせ、緊張感
はなく、10kmを歩いて来たとは思えないほ
どの元気さです。足には皆さんよく履き慣れた
スニーカー、これは現代版わらじですね。当時
はもちろんわらじ履きでした。それも履きかえ
用に各人10足も持っていたそうです。みの、
笠にスニーカー、そのアンバランスが何ともい
えません。全員到着後、真如院(当時もケガ人
の救護や炊き出しが行われたお寺)で、明和町
の方からの暖かい豚汁のサービスをいただきま
した。万歩計が10kmで17500歩くらい
だったそうです。

続いて午後2時からは、会場は板倉町中央公民
館に移り、シンポジウム「足尾鉱毒問題と板倉
の人々」と題して、宇井純、田村紀雄、山岸一
平各先生方による講演があり、ここもまた階段
に座って聴く方もいるほどの大盛況で、2000
年の2月13日は大きな感動を持って閉じられ
たのでありました。早咲きの紅梅白梅が春近し
を思わせる一日でした。未来に生かそう鉱毒事
件―ですね。

川俣事件とその他請願のこと・その2
ミケ(5) 投稿日:2000年2月6日<日>07時33分
国会で繰り返し銅山の鉱業停止を要求する
正造に対して、当時銅は富国強兵の為の主
要輸出品でもあり、政府でも被害状況の視
察をしましたからよくわかっていたのです
が、当時の事情からして鉱業停止はもって
の外。

鉱毒流出予防の工事命令などで運動を鎮静
化させようと計画したのですが、正造の意
志はあくまで政府からの銅山に対する鉱業
停止命令であり、予防命令ではないのです。

さて、何回かの大挙請願(押出し)の後、
少人数の女性だけに依るねばり強い請願が
始まりました。それも70歳を超えた老夫
人も混じり、ほとんどが50歳前後の人達
です。入れ替わり何人かずつ、費用も持た
ず上京してくる農民達に対して、一般の人
達の間にもマスコミを通じて窮状が伝わっ
ていましたから、日用品、食料などと共に
金銭の援助もあり、その為、長い滞在が可
能となり毎日のように関係機関に訴えて回
ったということです。方言のままに涙で訴
える女性集団に係員も困り果てたことでし
ょう。栃木の方言と言えば、日光猿軍団の
団長を思いだしますね。

明治34年には、キリスト教の婦人会によ
る鉱毒地救済婦人会の発令式がありました
が、その翌日の11月30日には、古河市
兵衛の妻・タメさんが神田川へ投身自殺す
るという悲劇が起こりました。タメさんは
夫の市兵衛に内緒で被害民のために寄付を
したりしていたようなのです。被害地の婦
人達は救済会の人達とタメさんにも直接訴
えようとしていたようですが、お気の毒な
ことでした。タメさんも被害者の一人とし
て忘れてはならないと思います。この10
日後の12月10日に正造の直訴となった
のですが、これは、鉱毒闘争を限られた一
地方の問題ではなく、日本中に大々的に知
らせることになりました。正造もそれを狙
ったのかもしれません。

川俣事件とその他請願のこと・その1
ミケ(4) 投稿日:2000年1月31日<月>00時29分
雲龍寺は館林から佐野への途中、渡良瀬大橋
を渡ってすぐ左の堤防を下った所にあります。
右へ行くと田中正造終焉の地である庭田家が
ありますが、別の機会にゆずりたいと思いま
す。雲龍寺には明治29年、栃木・群馬両県
の鉱毒事務所が設立されており、川俣事件(
明治33年2月13日)といわれている第4
回大挙請願の際には被害民2000余名の集
合場所になりました。第4回というからには
第1回は明治30年3月2日、第2回が同年
3月23日、第3回が翌31年9月26日、
川俣事件後も第5回が明治35年2月2日、
同年3月2日に第6回で、大挙請願といわれ
る出京は最後になりましたが、ほとんどが厳
寒の季節でさぞかし大変だった事でしょうが、
これは農閑期を狙った為だという事です。あ
くまで法律に外れない「請願」であり、決し
て百姓一揆ではありません。

正造は東京に在って、地元の運動指導者には
多くの手紙で指示を出しておりますが、続々
請願に出京する農民を迎え、大変な心労があ
った事と思います。

明治12年に新たに栃木新聞を発刊し、編集
長でもあった田中正造は「書く」のを苦にし
ない優れたジャーナリストでもあり、運動の
指導者ばかりでなく、故郷の知人にも数多く
の手紙を送りました。ある時、妻カツに手紙
を書こうとしてしばらく名前を思い出せなか
ったというエピソードがあるくらい多忙な毎
日だったということです。

製錬所の玄関・古河橋
ミケ(3) 投稿日:2000年1月16日<日>04時09分
古河橋は直利橋ともよばれ、もともとは木橋
だったのですが、1887年(明治20年)の
大火で焼け落ちたあと、ドイツから鉄製の橋
を輸入して1890年に架け替えられました。

1992年(平成4年)まで現役で使用され
ていましたが、老朽化したため並んですぐ隣
に新しい橋が架けられ、平成5年より使用さ
れています。古い橋は今、歩行者専用となり
ました。橋の上からの景色は、左に製錬所を
見て、今は川の水も青く澄み、最も足尾らし
い場所ではないでしょうか。

昨秋通りかかった時、タイミングよくかもし
かに逢いました。龍蔵寺の裏山から時々出て
来るのだと、地元の方が話して下さいました。

直利橋は、今は渡る人も観光客が主で静かな
風情ですが、かつては多くの資材が運び込ま
れ、そしてどの位多くの銅がこの橋を渡って
旅立った事か、人々の忙しく行き交う当時の
様子を思うと感慨深いものがあります。

足尾銅山と古河市兵衛
ミケ(2) 投稿日:2000年1月9日<日>07時40分
田中正造は若い時、将来の自分をして「高僧
になりたい」と言ったところ、両親をはじめ
家族一同から「僧は美顔を要すべし」と、つ
まり「僧侶というのはハンサムでないとダメ
なんだよ!」と反対されたとか逸話があるそ
うですが、古河市兵衛さんは若かりし頃、ど
んな夢を思い描いていたのでしょうか。京都
岡崎の庄屋の次男として生まれたものの、父
の代で家は没落、幼い時から家業の豆腐屋を
手伝い、納豆の行商などをしていたと言われ
ています。17歳の時に盛岡の伯父の元へ行
きましたが、不遇な年月を過ごし1857年
25歳の時、伯父に推されて古河の養子とな
りました。銅山の経営も始めから順調な訳で
なく、仕事一途な誠実な態度が人を動かし成
功へとつながったのでしょう。

明治36年に亡くなりますが、その2、3年
前までチョンマゲ頭で通したのだそうで、後
世に銅山王と称せられています。「運・鈍・
根」がモットーだったとか? 足尾銅山の他に
も東北から新潟をはじめ、たくさんの銅山を
経営したのですが、やはり古河の事業の中心
は足尾銅山であり、その経営危機の際にも、
「自宅の畳の一枚一枚をはがして売ってでも、
銅山は潰さない覚悟ですから…」と言わしめ
たというぐらい、熱い思い入れがあったとい
う、とにかく銅山経営に関してはただひとす
じ、私腹をこやすなどという考えは毛頭なく、
仕事が好きで励み、田中正造もドッコイの精
神力で臨んでいたようです。

当時の銅山関係者はもちろん、渡良瀬川の上
流から、下流から、関係する人々全てが鉱毒
問題に奔走し、またその為に学び、行動し、
今、日本国内ばかりでなく世界の人々にまで
活動が引き継がれ、銅山に係わった故に稀有
の生涯を送った人々がいかに多かったことか
を思う時「足尾銅山」やはり大変意義あるも
のと思います。

杉菜畑の山神社
ミケ(1) 投稿日:2000年1月3日<月>00時35分
<おことわり>
昨年分の書き込みについては、すべて
バックナンバーに収録させていただき
ました。トップページよりご覧下さい。


新年あけましておめでとうございます。
2000年という記念すべきこの年。
20世紀最後の年が良い年になります
ようにお祈り申し上げます。

新年の初詣に、山神社にお参りしてみま
しょう。前述の木村長兵衛の死を嘆く間
もなく、銅山は採掘方法の近代化と共に
増産も急ピッチという状態でしたが、今
後の鉱山の繁栄と安全を祈る目的で明治
22年、杉菜畑に山神社が建てられまし
た。役員及び鉱夫一同の献金によって建
てられたものです。

製錬所から出川を上流へ行くと、三養会
の建物が残る手前に案内板があります。
鳥居をくぐり、そこから100mほどの
山の中腹の神社まで社宅が連なっていた
そうで、何段にも石垣を積み上げてある
道を廃屋や台所用品の落ちているのや、
道の水道管など当時の生活を想いながら
登るとほとんど崖っぷちのような棚地に
小さいけれども立派な神社が建っていま
す。出川をへだてて「足尾銅山とは備前
たて山そのもののこと」といわれ400
年近くにわたって銅を産出し続けた名山、
備前たて山が見えます。山神社とともに
この場所は、銅山の人達にとっては特別
の思いがこめられた聖地だったことでし
ょう。

山神社は今も足尾町の文化財として守ら
れております。他にも銅山関係のたくさ
んのものを管理して下さっている足尾町
の皆さんに感謝しております。

------足尾町がんばれ------

※備前たて山の「たて」の字は外字のた
 め出力されません。「盾」にかねへん
 をつけて下さい。